障壁画再生〜式台の間〜
■2024年7月18日〜9月15日
■二条城障壁画 展示収蔵館
今年度の二条城障壁画展示収蔵館は「シリーズ 二条離宮の時代」と銘打ち、1884(明治17)年から1939(昭和14)年の京都市への下賜まで、この場所が皇室の別邸とされていた時代を意識した展示を行なっています。
離宮時代を象徴する施設である「本丸御殿・庭園」の一般公開が、耐震補強工事等をようやく終え、今年(2024年)9月からおよそ18年ぶりに再開されたことに因んでの企画なのでしょう。
前回の春季展示「大広間・一の間」に続き、夏季は二の丸御殿「式台の間」の障壁画が取り上げられています。
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二条城は、1867(慶応3)年の徳川慶喜による大政奉還後、すぐに徳川家から皇室に所有が移ったわけではありません。
しばらく明治新政府の管理下に置かれた後、1871(明治4)年、まず京都府が二の丸御殿を府庁舎として使うことになりました。
1873(明治6)年からは陸軍省の管轄下に入っています。
つまり、幕末期から1884年に施設所管が宮内省に移り「二条離宮」となるまでの約17年間、二の丸御殿は文化財的な扱いを受けるというより、極めて実務的な機能を前提とした建物として使用されていたことになります。
築城から250年以上の歳月を経た劣化に加え、明治維新期のこうしたオフィス的利用等によって二条城内はさらに損耗の度合いを著しくしていました。
宮内省は離宮化にあたり、急ピッチで御殿内の体裁を回復する必要に迫られることになったわけです。
「式台の間」は、一部すでに失われてしまっていた寛永期障壁画に代わり、離宮化に伴って再生された部分を端的に確認することができる空間です。
今回の展示は離宮時代におけるこうした「リフォーム障壁画」に注目している点で、地味ではありますが、とても面白い企画といえそうです。
「式台の間」は、巨大な「遠侍」と将軍の謁見空間である「大広間」を接続するように設けられた中継的建造物、「式台」の主空間にあたります。
狩野甚之丞による虎が睨みをきかせる「遠侍」各間と、狩野探幽が主に担当した格調高い「大広間」の間にあって、「式台の間」は文字通りつなぎ的な場であり、「大広間」に入場する前の「控えの間」としての性質が色濃い空間といえます。
ここを飾る障壁画も当然こうした機能を意識して描かれることになりました。
「式台の間」の北に接している「老中一の間」から「老中三の間」には狩野興以の筆によると推定される典雅な花鳥画等が描かれていますが、メインホールである「式台の間」はいたってシンプルなモチーフによって統一されています。
「松図」です。
松の巨木以外、ほとんど何も描かれていません。
「松」は「大広間」のモチーフと共通していますから、「式台の間」は将軍と面会する「大広間」の空気感を先取りしているともいえます。
拝謁する者に徳川将軍の気配を「大広間」に入る前から伝達する役目が「松」に期待されていたのでしょう。
その「松図」に関して、展示収蔵館は「狩野探幽または山楽」の筆と解説しています。
近年、「大広間四の間」の「松鷹図」については、探幽ではなく山楽によるものと実質特定した展示収蔵館ですが、鷹のような特徴的なモチーフがない「式台の間」に関しては探幽なのか山楽なのか、明確化するヒントがつかみにくいのかもしれません。
さて、「二条離宮」として宮内省所轄となったことを受け、二の丸御殿も皇室の施設として体裁を整えるため、損耗していた障壁画群に対する修理作業が急がれることになりました。
展示収蔵館の松本直子学芸員の極めて詳細な解説によれば、1885(明治18)年11月から翌年の8月にかけ合計14名もの画工が集められ修復作業が行われたのだそうです。
その中には土佐光武(1844-1916)といった宮廷画家の流れを汲む者に加え、円山・四条派の絵師たちも含まれていました。
ただ、膨大な量の障壁画を1年にも満たない期間で再生することには当然無理があり、修復は現在行われているような精緻な原画復元作業ではなく、「補彩」、つまり塗り直しや描画の追加といったかなり荒々しい手法がとられることにもなりました。
「式台の間」の「松図」にもそうした明治期修復の痕跡があり、一見、鮮やかに見える松葉などはこの「補彩」によるものです。
さらに「松図」以上に激しい変化を被った部分が「式台の間」の「腰障子」に描かれた「花鳥図」です。
この部分はなんと寛永期に描かれた原画そのものが失われていたのです。
史料上、原画には春夏の草花などが描かれていたことが判明しているそうですが具体的にどのような描画だったのかはわかっていません。
離宮化に際し、この欠損部分について大胆なリフォームが行われました。
ここには宮内省が保有していた近世絵画の一部が「切り貼り」されることになったのです。
宮内省には京都府から二条城引渡しの際に受領した古画に加え、もともと京都御所に伝来していた絵画がありました。
「式台の間」の腰障子絵画はこうした既存ストックから作品を選んでトリミングし、再利用することによって新たに制作されたと推定されています。
もともとは全く別の絵画であり、寛永期に描かれたものとも特定できません。
ところどころ不自然に接続された部分がはっきり視認できます。
ただ全体としては流石というかなんというか、シックさと華やかさを巧みに取り入れていて、空間全体としてみると大きな破綻を生じさせているようには感じられません。
むしろ一刻も早く離宮としての格好を整備する必要があった当時、苦肉の策としては十分なレベルの仕事といえるのかもしれません。
しかし一方で、この作業の結果、バラバラにされてしまった絵画があるということでもあります。
「離宮時代」の二条城は、皇室に属することによってそれまでの経年劣化によるダメージが回復、抑止されることになったという点で、このヘリテージにとって、ある意味幸運な時期だったのでしょう。
ただ、現代の視点でみると乱暴と言ってもよいくらい、しっかりとした考証もなく急いで「上塗り」されてしまった修復箇所があり、欠損を補うためとはいえ貴重な近世絵画が分解されてしまうという事態も起きていたわけです。
今回の展示では、離宮時代を単にノスタルジックに紹介するのではなく、当時の修復作業に関するリアリスティックな批判が鋭く加えられていて少し驚きました。
地味ゆえに他の障壁画に比べてそれほど展示される機会が多いとも思われない「式台の間」自体の原画をたっぷり堪能できる絶好の機会であることに加え、文化財保護に関して諸々と考えさせられた点でも楽しめる企画でした。