LOVEファッションー私を着がえるとき
■2024年9月13日〜11月24日
■京都国立近代美術館
18世紀の貴族男性が身につけたという花柄ウエストコートから、現在も制作が継続されている映像作品まで。
貴重な衣服現物と多彩なモダンアート群によって眼と頭を同時に楽しませてくれる企画展です。
京近美と共にこの企画を実質的に主導している組織があります。
ワコール系の公益財団法人京都服飾文化研究財団(KCI)です。
多数の展示品を提供しつつ、図録の総論をKCIの石関亮アソシエイト・キュレーターが執筆、個別の作品解説もKCIのキュレターたちがその多くを担当しています。
KCIと京近美はほぼ5年のスパンでコラボしていて、前回は2019年、「ドレス・コード?」展を開催しています。
展覧会のタイトルに「私を着がえるとき」とあります。
「私が」ではなく、「私を」です。
ちょっと奇妙さを覚える表現ですが、鑑賞をすすめていくとこのタイトルの意図していることがだんだん了解できてきました。
考えてみると「着がえる」という行為は実に不思議な現象といえるかもしれません。
例えば、起床してパジャマから外出着に着がえるとき、その主体である「私」は「寝る」という行為から「生活(仕事も含む)」という行為に遷移するために「着替え」ているわけです。
これは普通に考えれば「私が」服を選び着替えることであり、「私を」着替えていると認識する人はほとんどいないでしょう。
「日常」においてごく自然に「私が」行っていることです。
しかし、「寝る」という行為に紐づいたパジャマから、「生活」に結びついた外出着に「着がえる」とき、その「私」は全く「不変で同一」な存在といえるでしょうか。
「寝ていた私」と「生活する私」は生命体としては当然にほとんど変わりませんが、「行為する主体」としたみた場合、明らかに違った存在です。
卑近な言い方をすれば「睡眠モード」から「仕事生活モード」へ存在自体を切り替えています。
つまり、パジャマから外出着へのチェンジは「私が」であると同時に、「私を」着替えているともいえるわけです。
環境の変化に応じて、「私が」着がえることと、「私を」着がえることが同時に不可分の関係として立ち現れてきます。
こう考えると、どのようなファッションを選ぶかということは、「私が」対象となる衣服を選んでいるようでいて、実は「私自身」が変化した結果に伴って起きていることになります。
主体である私と客体であるファッションは常に内と外とを回転逆転させながら行き来しているような関係にあるといえるかもしれません。
さて、パジャマと外出着のように日常的に起こっている着替えとは別に、もっと長いスパンで、かつ、個人を超えて起きる現象によって大規模に「私を着がえるとき」が訪れることがあります。
この展覧会が描こうとしている一つのテーマがこの「大きな、私を着がえるとき」ではないかと思います。
その非常にわかりやすい例がステラ・マッカートニー(Stella McCartney 1971-)が2015年に発表したコートでしょう。
ふわふわの白いファーで覆われていますが、これは全てフェイク・ファーです。
それ自体は珍しいことではありませんけれども、このコートの場合、あえて袖口表面に「FUR FREE FUR」 とレーベルが縫い付けられています。
つまりマッカートニーは「リアル・ファーではない」ということを主張しながらこのコートを着るように消費者に求めているわけです。
特に21世紀に入り、動物愛護の観点からリアル・ファーへの批判が高まっていることは周知のことで、実際にリアル・ファーでの製造を取りやめたブランドが数多く知られています。
マッカートニーはそれをあえて衣服上で明示することでこの姿勢に賛同する消費者の欲望を引き寄せようとしているのでしょう。
「リアル・ファーはもうダサい」という一定のマーケットニーズを確信しているからこそのファッションといえます。
このコートを好んで着る人は「リアル・ファーのファッションを着ない」という姿勢に転じることによって「私を」着替えたといえます。
「私が」選んだファッションは、「私を」変えた結果なのです。
一方で、その隣に展示されているボッテガ・ヴェネタの真っ赤なコートは、まるでかつて流行した狐などの「尻尾」を全体に配したようなスタイルをみせています。
ラムの毛が使われていますから、狐などの尻尾ではないのですが、それを明らかに「回顧」しているファッションではあります。
2021年、ダニエル・リー(Daniel Lee 1986-)が手がけたというこのユニークなコートは、「動物愛護」というトレンドを意識しつつも、結局は「昔のような尻尾のリアル・ファーが欲しい」という欲望を満たしているといえましょうか。
こうなるとこのコートを身につける人は一気に2回「私を」着がえたことになるかもしれません。
「私を着がえる」ということがとても劇的に現れたある作品にスコープがあてられています。
ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf 1882-1941)の代表作『オーランドー』(Orlando: A Biography 1928)です。
主人公が男性から女性に変身するこの小説は舞台や映画など、すでに様々なアートに変奏されてきました。
この展覧会では、オルガ・ノイヴィルト(Olga Neuwirth 1968-)が作曲し2019年にウィーン国立歌劇場で初演されたオペラ「オルランド」をキーに、舞台衣装を担当した川久保玲(1942-)の作品を紹介しています。
性を変える、という行為も随分と荒っぽい言い方をすれば「私を着がえる」ということに他なりません。
コム・デ・ギャルソン・オム・プリュスが2020年に発表した「オルランド」に関係したファションはこうした「着替え」が、現実的な性転換やあるいは逆に非現実的なファンタジー世界だけで起こることではなく、ファションそのものによって起こすことができることを体現しているかのようです。
また、ノイヴィルトの「オルランド」はシュターツオパーがその長い歴史の中で初めて女性作曲家に委嘱した作品です。
つまり、このオペラはウィーン国立歌劇場自体が「私を着がえた」結果、生み出されたともいえるわけです。
展覧会には印象的な「ヤドカリ」たちが登場しています。
AKI INOMATA(1983-)による「やどかりに「やど」をわたしてみる」という連作です。
ヤドカリが纏う「やど」には東京やNY、北京などの都市や象徴的建造物があてがわれています。
このヤドカリたちは果たして「私を」着がえているのでしょうか。
ヤドカリはファッションとして外殻を身につけているわけではありません。
生きるという明確な目的のために纏っているわけで、そこに「パジャマから外出着」や「リアル・ファーからフェイク・ファー」、「男性から女性」といった行為や思想、現象に伴う主体の変化はないともいえます。
つまりヤドカリにとってみると、「やど」をチェンジすることで外殻が劇的に変化するにも関わらず、「私が着がえる」という事態はあっても「私を着がえる」ことはまず起こらないことになります。
AKI INOMATAによるこの作品は、いくら「私が変わるわけではない」と頑強に暮らしていても、結果としてその主体が生きる「環境」によって少なからぬ変化、つまり「着がえ」が起きていることを示唆しているようにも思えます。
ファッションを「着がえ」ている主体とは何なのか。
それを突き詰めていけばいくほど、内と外が無限に宙返りしているように思えてきます。
ただ、どのように主体が変化しても、おそらくその主体に一貫して強く作用している要素が、この企画タイトルにある「LOVE」ということなのでしょう。
今回の企画展は3階展示室に加え、一部4階のコレクション展示コーナーも使用されています。
原田裕規(1989-)の「シャドーイング」シリーズなど、4階にも注目作品がありました。
写真撮影は全面的に解禁されていますが、1点だけ、「SNSでの使用は不可」という作品がありますので留意が必要です。
なおこの企画展は京都展の後、熊本市現代美術館、東京オペラシティアートギャラリーに巡回する予定となっています。