昨年に引き続き「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選」が今年も各地のミニシアターで上映されました(提供:マーメイドフィルム、Respond・配給:コピアポア・フィルム)。
今回取り上げられている3本の内、「エフィ・ブリースト」(Fontane Effi Briest 1974)は日本初公開なのだそうです。
制作から今年でちょうど50年経過した作品ということになりますが、どうしてこんなに本邦公開が遅れてしまったのか不思議なくらいの素晴らしい映画でした。
Rainer Werner Fassbinder Foundationによってデジタルリマスタリングされたモノクロ映像の美しさにまず驚きました。
撮影はファスビンダー(1945-1982)の作品に数多く携わったディートリッヒ・ローマン(Dietrich Lohmann 1943-1997)とユルゲン・ユルゲス(Jürgen Jürges 1940-)が担当しています。
鏡を効果的に使って奥行きや象徴性を滲ませる手法等は監督ファスビンダー自身のアイデアなのでしょうけれども、全体としては古典的といってもよいくらい人物景物を必要十分かつスタイリッシュに捉えていて、全く弛緩する瞬間がありません。
140分という時間を、冗長さを排除しながら、しっかり実感させてくれる映像です。
この映画には原作となった小説があります。
テオドール・フォンターネ(Theodor Fontane 1819-1898)の『エフィ・ブリースト』(Effi Briest 1894)です。
映画「エフィ・ブリースト」のもっとも驚くべき点は、ほぼ原作小説が「そのまま」映像化されている作品のようにみえてくるところでしょう。
ファスビンダー作品の中にしばしば描かれる直接的な暴力や露悪的シーンが全くといってよいほど登場しません。
ファスビンダー自身のナレーションによってフォンターネの小説がおそらくその文体を崩すことなく語られていく中、俳優陣も原作にかなり近いスタイルでテキストをセリフ化しているように感じられます。
小説世界と映画世界が容赦なく直結しているような、不可思議な「リアル」が充満しています。
これはアート映画というよりも、「超文芸映画」です。
場所はプロイセン王国、時代は「老皇帝ヴィルヘルム」が統治していると説明されますから、1880年代の後半と思われます。
地主階層の家に属する少女エフィ・ブリースト(ハンナ・シグラ)が自分より20歳も年上である貴族ゲールト・フォン・インシュテッテン男爵(ヴォルフガンク・シェンク)と結婚し、架空の田舎街ケッシンで暮らす中、男爵の友人クランパス少佐(ウリ・ロンメル)と不倫関係になり、不幸な結末を迎えるという物語です。
特段、スリリングな展開やダイナミックな逆転劇等があるわけではありません。
エフィに起こることはかなり悲劇的ではあるものの、筋書きとしてはよくありがちな前近代的不倫ドラマのそれともいえます。
登場人物たちが過ごす室内はとても質感豊かにとらえられていますが、特に豪華というレベルではなく、屋外の情景も美しくはあるものの極端に壮麗な場所等が登場するわけではありません。
仮にフォルカー・シュレンドルフが同じ題材の映画を監督したならば、もっと装飾的にディテールにこだわり抜いた映像に仕上げたでしょうし、ヴェルナー・ヘルツォークであれば登場人物の「生」っぽさをもっと強調したかもしれません。
ファスビンダーも、この人の手癖から想像すれば、たとえば「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」に代表されるように、「戯曲」としてフォンターネの小説を変換するというスタイルがとりえたようにも思います。
しかしファスビンダーは、この映画では徹底的に「小説としてのリアル」を描こうとしているのです。
モノクロを採用したことで、背景から余計なノイズが取り払われると同時に俳優陣の存在感がまるで小説世界からそのまま飛び出してきたかのように、直截、画面に現れてきます。
しかし、映画のスタイルとしてみた場合、「エフィ・ブリースト」は決して「リアリズム映画」ではありません。
フォンターネが残した「テキストのリアル」が徹底的に追求されている映画なのです。
いちいちナレーションによって小説のフレーズが引用されていきます。
普通なら説明的になりすぎて失笑をかってしまうリスキーなスタイルです。
他方で、俳優たちはほとんど喜怒哀楽を表面的に激しく表すことがありません。
無表情になる一歩手前で心象を滲ませていきます。
結果として説明的なナレーションと演技が渾然一体となって「小説」そのものが映像となって現れてくるのです。
場面転換に古めかしいホワイトアウトやブラックアウトを多用することで、まるで読者が本を一頁一頁めくっていくような効果が意図されているようにもみえます。
なぜこんなに小説と映画を直結させてしまう異様な手法をファスビンダーは用いているのでしょうか。
それは、おそらく小説『エフィ・ブリースト』が、発表当時、図らずも描き尽くしてしまった「社会」という決定的な「暴力」を示しているからではないかと考えています。
小説自体が映画的変換術を必要としないくらい「リアル」に、今も継続しているこの巨大な「見えない暴力」を描いているからこそとられたスタイルなのでしょう。
この映画の中で、唯一、直接的な「暴力」が登場する場面があります。
インシュテッテンが、かつて妻と不倫関係をもったクランパスを決闘で銃殺するところです。
ただ、このシーンは極めて静的に描写されるだけであり、殺人の現場というよりまるで「儀式」です。
少しも「暴力的」ではありません。
この決闘に至る前、インシュテッテンが友人であるヴェラースドルフ(カールハインツ・ベーム)に決闘の必然性を語る場面があります。
実はここにこそ、恐ろしい「見えない暴力」が端的に描かれているのです。
妻エフィ・ブリーストとクランパスの不倫は6年も前のことであり、その事実を知っているのはインシュテッテンだけでした。
黙っていれば良いものを、それをあえてヴェラースドルフに彼自身が告白することによって、インシュテッテンは決闘を正当化します。
ヴェラースドルフは「この事実は墓場まで持って行く」とインシュテッテンをさとし、決闘を思いとどまらせようとします。
しかし、インシュテッテンは自らの告白が招いたことであるにもかかわらず、「この事実を君が知っていること自体が耐えられない」とわけがわからない理屈を持ち出し、何がなんでも決闘する意思を曲げようとしません。
インシュテッテンはヴェラースドルフという「社会」に復讐の正当性を訴え、それにヴェラースドルフも「社会」として結局応じていくことになります。
「一人きりの世捨て人であればこんなことをする必要はない」とインシュテッテンは語っています。
でも「社会」という環境の一部を構成することで確固としたレゾンデートルを担保されている彼にとっては、妻の不倫はその根底を揺るがす事態なのです。
他方で彼が属している「社会」はそれを解決し彼に再び名誉を取り戻す機能を備えているものでもありました。
インシュテッテンは「社会」という暴力装置を巧みに使うことでクランパスに直接的に死を与え、妻エフィ・ブリーストを間接的に死へと追いやることになります。
映画はエフィの両親が庭でくつろぎながら語り合う場面で終わります。
エフィにとって最後の拠り所だったはずの家族までもが実は「社会」そのものであったことが静かに、しかし、極めて冷酷に示されています。
不倫をした娘エフィを長い間、両親は義絶し実家への出入りを禁止していました。
そのことが彼女の死を早めてしまったのではないかと自問するエフィの母に対し父親はこう語ります。
「それはあまりにも広すぎる話題だ」と。
ファスビンダーはフォンターネの小説自体がこの「暴力装置としての社会」を極めて端的に描いていることを確信していたのでしょう。
だから小説世界をあえて作り変えなかったのです。
小説世界を映画世界に直結させることで、この目に見えない、しかし圧倒的な「暴力」を提示しています。
ファスビンダー組ともいえるお馴染みの俳優たちがあちこちに登場し映画の世界観をがっちり支えていますが、なんといってもエフィを演じたハンナ・シグラの美しさが光ります。
音楽は極めて抑制的に使用されているものの、何度もサンサーンスの「ハバネラ」が挿入されます。
おそらくエフィの中に「社会」から解放された何かがざわめいたとき、このメロディーが切なく流されていたのかもしれません。
「エフィ・ブリースト」は内容の重大さ、スタイルの格調高さ、俳優陣の素晴らしさ、いずれをとってもファスビンダー作品中の傑作であることを確認できました。
今回の本邦初上映企画に深く感謝しています。