コピアポア・フィルムの配給で五十嵐耕平(1983-)監督による「SUPER HAPPY FOREVER」(2024)が9月下旬より各地のミニシアターで上映されています。
とてもユニークな「構造」をもった映画です。
テーマ自体はかなり重苦しいのに、鑑賞後に「映画が描かなかった時間」が柔らかくこちら側の心中に広がってくるような素晴らしい作品でした。
東伊豆が主要なロケ地に選ばれているようです。
ただ、伊東や熱川、下田あたりとみられる情景が映しだされはしますが、実存する場所がそのまま固有名詞を伴って物語の背景となることはありません。
「瀬奈」という、伊豆半島上にいかにもありそうな架空の地名を、さりげなく、しかし実に細かいところにまで周到に使用することで、リアル性と寓話性が微妙に混ざり合う効果があげられているようです。
インディーズ的な風合いが十分感じられる映画ですけれど、持ち物や衣装の細かい部分に非常に繊細な仕掛けが施されている作品です。
そしてとても重要なことなのですが、映画はこの瀬奈という場所から全く離れることがないのです。
前半と後半、そして短いエピローグ的なパートから成立している映画です。
前半は「2023年8月19日」が、後半は「2018年の8月19日」のことが描かれています。
この間、5年の歳月が流れています。
前半の方が現在に近いわけですから、時間の流れを逆行するようにストーリーが構成されています。
しかし、この「SUPER HAPPY FOREVER」は単なる「回想型」、あるいは「タイムリープ」的な映画では全くありません。
前半は主人公の一人である佐野(佐野弘樹)を中心とした世界、後半は彼の妻であったもう一人の主人公、凪(山本奈衣瑠)の世界が描かれているのですが、それぞれのパートは完全に独立しています。
ところが前半で佐野がとるそのあまりにも身勝手でやさぐれた振る舞いや佇まいが、独立しているはずである後半パートに強く共鳴していきます。
理解に苦しむ佐野の行動。
その理由が彼の「回想」ではなく、主人公の視点を異にすることで痛々しいまで伝わってくるのです。
摩訶不思議なタイトルである「SUPER HAPPY FOREVER」は佐野の友人宮田(宮田佳典)が参加しているスピリチュアル系セミナー団体の名前であったことが映画前半で説明されています。
この宮田という人物も映画に素晴らしく複雑な奥行きを与えています。
宮田は、妻を失った傷心の佐野に友人としてとても真っ当な対応をとっているようにみえます。
温泉浴場で倒れた老人に救命措置を的確に施したり、傍若無人な行動に終始している佐野を嗜めつつフォローする宮田という男は、狂信的な世界に生きる非常識人では全くありません。
むしろ佐野のような人物にとっては理想的な親友といえます。
しかし、佐野による決定的なある行動によってセミナー団体SUPER HAPPY FOREVERから授けられた印を失ってしまった宮田はそそくさと佐野の元を去っていきます。
この映画はとりたててスピリチュアル系団体の怪しさを非難しているわけではないようにみえます。
それぞれの人間にとって、「幸福」の価値はあくまでも相対的なものであるということを宮田という存在を通して描いているのでしょう。
そして、タイトル「SUPER HAPPY FOREVER」は、実はこのスピリチュアル団体の名前からとられているものでないのであろうことが、次第に明かにされていくのです。
最愛の妻を失った佐野が、かつて彼女と出会った場所を訪れ、逸失してしまった思い出の品を探して彷徨い歩く前半。
後に妻となる凪が佐野と出会うまでのプロセスを描いた後半。
共にある夏の一日に起きたことが淡々と描かれているだけであり、場所も全く同じです。
前半、人格が破綻したかのように伊豆の街を彷徨う佐野の姿からは、「眠るように」亡くなってしまった凪との日々がいかに尊く幸福であったかが伝わってきます。
他方、偶然一人旅をすることになってしまった凪が次第に佐野との距離を縮めていく後半パートが描く過程は観ているこちらが気恥ずかしくなるほどに「波長が合うもの同士」の出会いが初々しく描かれています。
喪失の事後である前半と、出会いの喜びに満ちた後半。
場所は伊豆に固定されていて、回想的に東京や他の街が写されることは皆無です。
つまり映画はこの間の「5年」を全く描いていないのです。
結果として始点である2018年8月19日と終点である2023年8月19日の間、つまり佐野と凪が夫婦として過ごした「超幸福」な時代が含まれる期間に起こったであろう出来事は、鑑賞者の想像に全て委ねられることになります。
凪はすでにこの世にいません。
佐野はこの後もしばらくはその喪失感を背負ったまま生きるのでしょう。
とすると、この「描かれなかった5年間の幸福」は主人公二人ではなく、「鑑賞者」の中に、まさに「SUPER HAPPY FOREVER」として染み込んでくることになるわけです。
映画の「構造」自体が生み出した鑑賞者へのとびきりのプレゼントです。
この作品がさらに秀逸なのは、ベトナムから伊豆のホテルに出稼ぎにきている女性アン(ホアン・ヌ・クイン)をメインとしたエピローグを置いていることでしょう。
佐野と凪にとってかけがえなのない思い出の品を彼女が偶然かつ必然的に受け継いでこの場所から旅立つことによって、二人だけの「SUPER HAPPY」が、清々しく開かれながら「FOREVER」なものとして海と空に溶け込んでいくかのようでした。
主要登場人物を演じた三人の俳優たちが、それぞれの個性を活かしながらリアルにキャラクター造形へとつなげているように感じました。
微妙にダサいのに実は重要なキーアイテムであるUMBROのTシャツを着こなした佐野弘樹に、正真正銘のダサい衣装で相対した宮田佳典の組み合わせが絶妙なチグハグ感を出しています。
髙橋航による撮影は、東伊豆特有の少し猥雑さと寂しさを含んだ夏の空気を見事にとらえているように感じました。
風景を絶妙にトリミングして「どこだかわからない伊豆」が創出されていたように思います。
「描かれなかった時間」の豊かさと深みを鑑賞者各々の想像に託したこの映画につけるタイトルは、やはり「SUPER HAPPY FOREVER」が最も相応しいのかもしれません。