若き見知らぬ者たち|内山拓也

 

山拓也(1992-)監督による「若き見知らぬ者たち」(The Young Strangers 2024)が10月11日から全国公開されています(配給はクロックワークス)。

これでもかと「不幸」がトグロを巻くように描かれているため、後味が良い作品とは決していえないのですけれども、監督自身が、テクニカルな面を含めて映画作りを存分に楽しんでいるようなところもあって、約120分、見飽きることなく鑑賞することができました。

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時間軸をかなり作為的に操作している映画です。
物語は現在と過去が、ときおり幻視的シーンなどを織り交ぜながら、複合的に絡みあいつつ進行していきます。
ただ、単純に時間軸を切断し垂直あるいは前後に嵌め込んでいくといった凡庸な手法がとられているわけではありません。
ぐるり、ぐるりとゆったり円環を描くように情景を写しとっていくカメラによって、現在と過去が緩やかな傾斜をもった螺旋のようにつながっては混淆していきます。
主人公風間彩人(磯村勇斗)の心象には、過去と現在がねっとりと不可分に結びついた世界が広がっているかのようです。

大都市のベッドタウン、あるいは地方都市の住宅街のような場所が描かれています。
坂道がたくさん登場します。
常に自転車で移動している彩人は坂を上がったり下がったりしているわけですが、この自転車シーンにまず彼の救いようのない不幸が暗示されているように感じました。

坂を上る途中、急勾配にふらつきカゴに乗せていたヘルメットを落としてしまった彩人はペタルを漕ぐことを諦めてしまいます。
一方、坂を下っているときには後ろから自動車に煽られて横転してしまったあげく、本来は加害者である運転手から逆に罵倒されます。
「上る」ことができないばかりか、「下る」ことにも悲惨さがつきまとう。
彩人はこの映画の中でほとんど常に何かに打ちひしがれています。
まるで内山監督は磯村勇斗をいじめることを楽しんでいるのではないかと勘ぐりたくなるほど、主人公彩人は、逃げ場を与えられることなく、不幸の渦に沈み込んでいきます。

彼に不幸をもたらせている最大の直接的要因が母親(霧島れいか)の存在です。
精神が崩壊してしまった彼女の行動によって家の中はいつもグチャグチャ、商業施設や近隣住民にも迷惑は及んでいて、母が問題を起こす度に彩人は後始末と謝罪を繰り返します。
一見、彼女は亡くなった夫(豊原功補)による不甲斐ない行動から精神を病んでしまったかのように感じられます。
しかし、この母親を蝕んでいる病はどうやらストレス等からくる一時的な心因性のものではなく、脳自体の疾病によるものであることが明らかにされます。
これでは、彩人は母親を不幸な境界におとしめた原因の全てを亡き父に押し付けることもできません。
脳疾患の場合、別の因子である可能性もあるわけですから。
結果として弟をもつ彼は、自死した父親を恨むこともできないまま、ひたすら母親の介護を担いつつ、両親が残したカラオケスナックと借金を背負いんで生きる道を選ばざるを得なかったのでしょう。

 


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彩人は母の付き添いで訪れた脳神経外科医から、ある決定的な一言を受け取っています。

「あなた自身がお母さんの病気の下に隠れてはいませんか?」と。

つまり、あまりにも悲惨な生活を続ける中で、彩人は母の不幸と共にあること自体を自分自身の存在理由とみなすようになってしまったということなのでしょう。
脳神経外科医はそこを鋭く指摘したのです。
医師の言葉が事務的に響くがゆえに、かえって、リアリティがあります。
短い挿入句的な場面でしたが、ここにこの映画の核心が現れていたように思いました。

幸いというか皮肉というか、彩人には彼を救おうとする恋人日向(岸井ゆきの)や友人大和(染谷将太)がいます。
彼は大和の結婚パーティーに招待され、「母の病に隠れる存在」から脱却する小さなきっかけを得るわけですが、そこに内山監督はとびきり悲惨な末路を設定し、さらに彩人を苛烈な状況に追い込んでいきます。
普通の映画ならそろそろ主人公を救う「何か」が描かれるのでしょうけれども、この「若き見知らぬ者たち」にはそうした救世主は出現しません。
映画のタイトルが現れる場面の直前に彩人がとったある衝撃的な行為が脳内に残っている観客には何が何だかわからない展開が描かれていきます。
ただでさえ不幸なこの主人公は映画の中で、なんと二度も消えてしまうのです。

ひょっとするとこれはホラー映画になっていくのではないかと勘ぐりはじめたくらいなのですが、映画はその予想もさらに裏切り、後半は彩人の弟で格闘家である壮平(福山翔大)を軸に進みはじめます。
壮平の格闘技シーンは、この種のスポーツを見慣れていない私からはどれほど迫真性があるのかはわかりませんでしたけれど、かなりの熱量でたっぷりと展開されていたようにみえました。
付け焼き刃ではできない身のこなしであり、演じた俳優たちがもつ身体能力の高さに驚くシーンです。
しかし、この弟を主役とした後半部分も、映画全体にカタルシスを与えるような爽快な気分とは別の重苦しさがなぜか感じられます。

友人大和が彩人の事件に関する真相を追求するため警察に詰め寄るシーンなど、物語に一種の明るさがみえはじめる兆候を示しながら、監督はそれらをいちいち打ち消してしまい、不幸の螺旋が途切れることはありません。
鑑賞者の安直な期待を挫く苦味ばしったスパイスが見事に配合されている映画です。

彩人が亡くなった後も、彼の母親を見守るように世話をする日向はひょっとすると彼の子供を宿しているのかもしれません。
彩人の事件に関与した警官(滝藤賢一)は強い自責の念に苛まれているようにもみえます。
しかし「不幸を存在理由」とせざるを得ないところまで追い詰められた彩人の気配が映画から消え去ることは結局のところ、ありません。
おそらく、現在の社会には彩人のような存在がひっそり暮らし、そして文字通り人知れず消えていっているのではないか、そんな重苦しい想像の余韻を残しながら映画は終わります。

スーパーの経営者にあらかじめお金を渡す彩人の不可解な行動の理由が事後的に判明するシーンに代表されるように、出来事の説明場面を逆転させることで謎解きを仕掛ける手法を多用するなど、凝ったシナリオテクニックが施させている作品でもあります(原案と脚本も内山監督によります)。

アート映画的な長回しを使用したりする一方、無駄なプロセスは果敢に排除しているため不思議に冗長さが感じられません。
風間家のカオス的室内など、非常に細部を重視した美術も見どころの一つです。
ただ、構造的にかなり冒険している面があることはたしかであり、ずっしりと重い手応えを感じさせてはくれるものの、完成度が高い作品というよりは技巧的な仕掛けの妙を楽しむ映画といえるかもしれません。