「ECMレコードーサウンズ&サイレンス」

 

ECMレーベルの仕事をトレースしたドキュメンタリー映画ECMコードーサウンズ&サイレンス」(sounds and silence unterwegs mit Manfred Eicher 2009)が10月18日より各地のミニシアターで公開されています(配給はEASTWORLD ENTERTAINMENT)。

レーベルのイメージをそのまま映像にしたような素晴らしい作品でした。
監督はペーター・グイヤー(Peter Guyer 1957-)とノルベルト・ヴィドメール(Norbert Wiedmer 1953-) です。

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このレーベルをマンフレート・アイヒャー(Manfred Eicher 1943-)が創設した1969年から今年で55年。
今回の上映はそれを記念したものと銘打たれています。

しかし、この映画の制作自体は2009年。
今から15年も前のことです。
2009年はECMのスタートからちょうど40年が経過した時期にあたりますから、スイスで制作されたこの作品は、おそらく本来「創立40周年記念」を祝って公開されたものなのでしょう。
同年、ベルン映画賞を受賞しているそうです。

一人、椅子にうなだれながら座っているアイヒャーの姿がまず写し出されます。
65,6歳の頃でしょうか。
頭髪も口髭も真っ白となっているこの名プロデューサーは、その醸し出す雰囲気自体がまるでレーベルそのものを象徴しているように見えてくるから不思議です。
一見、いかにも孤高の人のようでいて、よくみるとわずかに愛嬌をも感じさせるその風貌からは、彼の音楽に対する妥協を許さない姿勢と、アーティストたちから絶大な信頼を寄せられる人間的な厚みの双方が感じられてくるようです。

アイヒャーは、音楽には「光の筋」が必要だと語っています。
そうした彼の求める「光」が録音現場に出現する瞬間を捕捉するために、北欧、南米、ギリシャなど、世界各地に飛んでカメラが回された映画です。
ナレーションは一切なく、インタビュワーも登場しません。
ときおり車や飛行機からの眺めが描かれますが、その情景はECMレコードのジャケットデザインを思わせるように美しく芸術的です。

アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt 1935-)の作品を録音しているシーンが冒頭近くに置かれています。
場所はエストニアの教会内部。
祭壇画がそのまま飾られている寒々しい空間で、トニ・カリユステ(Tõnu Kaljuste 1953-)が指揮するタリン室内管弦楽団のパフォーマンスが収録されています。
おそらく「レナルトの追憶」の一部でしょう。
ペルトはこのとき75歳をそろそろ迎えるという頃ですが、写真などでみる達観した老僧のようなイメージとは随分違い、セッションの現場では音楽とシンクロするように多彩に動きまわり、豊かな表情を伴いながら自作の演奏を噛みしめています。

 


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個人的にECMレーベルの中では、このペルトに代表されるようなミニマルにスタティックな音楽、あるいはキース・ジャレットによる軽妙に辛口のバッハ、ギドン・クレーメルとその仲間たちが好んで紹介した尖った楽曲などが印象に残っています。

ただ、マンフレート・アイヒャーがもっている趣向の範囲は、清透な響きと祈りに満ちたクラシックや洗練された語り口のジャズといった世界だけにとどまってはいません。
人肌のような温もりや「雑味」のもつ美しさを感じさせる音楽の数々を彼は世界中を飛び回って拾い上げ、独特のパッケージに包みながら届けてくれた人でもあります。
テオ・アンゲロプロスの映画でお馴染みのエレニ・カラインドルーの作品や、ディノ・サルーシのアコーディオンには自然と身体に染み込んでくるような人懐っこい音楽の素晴らしさが感じられます。

 


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とはいっても、アイヒャーのもつ、音楽を採り上げるその審美眼が極めて研ぎ澄まされたものであることはアーティスト側もよく了解しているのでしょう。
印象的な場面がありました。
ジャンルイジ・トロヴェシ(Gianluigi Trovesi 1944-)はこの映画に登場するアーティストの中でもとびきり愉快な人です。
トロヴェシは幼い頃に地元で親しんだ「トスカ」などのオペラをオマージュしたサックス協奏曲のような作品の企画をアイヒャーにもちかけます。
厚ぼったいオーケストラの響きにトロヴェシのサックスが即興的に絡むかなり情報量の多い複雑にジャジーな曲のセッション風景がとらえられています。
トロヴェシはセッションに臨む前、アイヒャーに対して「気に入らなかったら、私が資金を出す」と陽気に語りかけます。
アイヒャーはそれに対し「馬鹿なことを言うな」とでも言いたげに片手を振って断っていました。
トロヴェシはおそらく自分の作品がひょっとするとアイヒャーの趣味に合わないのではないかと真面目に考えていたのかもしれません。
確かに彼のオペラオマージュ作品はECMが取り上げる音楽にしては饒舌に忙しすぎる曲想をもっています。
トロヴェシがアイヒャー独特の「審美眼」にこの作品が合格するのか、一抹の不安をもっていたとしても不思議ではないように思われました。
しかしアイヒャーは録音スタジオに入るや否やこの大袈裟なサックス協奏曲のテイクに細かく指示を出し、上質なサウンドに仕上げるため一切の妥協を許していませんでした。
アーティストとプロデューサーの強固な信頼関係が垣間見えた瞬間です。

 


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映画の最後の方でまたペルトが登場します。
今度はエストニアフィルハーモニー室内合唱団も加わっての「主よ平和を与えたまえ」のセッション風景が映されていました。
ペルトは録音に際してカリユステに「もっとここは強く」などと具体的に指示を出しています。
アイヒャーは作曲家と指揮者のやり取りを後ろでじっと見守っています。
指揮者にとってはとてもありがた迷惑な状況でしょうけれども、カリユステは虚心坦懐にペルトの指示に従っているようです。
会心の演奏が聴かれたのでしょう。
あの、まるで世捨て人のような風貌をしたアルヴォ・ペルトがアイヒャーの腕をとって嬉しそうに踊り出しています。
「光の筋」が現場からたしかに放たれたような映像でした。

ECMといえばジャケットの美しさも魅力の一つです。
この映画ではマンフレート・アイヒャーが画像ストックの中からデザインを選び出すシーンが登場します。
ただ、ほんの少しの時間しかあてがわれていないので、どういうプロセスでジャケットが制作されていくのか、その謎が解明されるほどの内容にはなっていません。
そこが少し残念ではありました。

キム・カシュカシアンはちょっと登場しましたけれども、クレーメルアンドラーシュ・シフといった馴染みのある面々は残念ながら出演していませんでした。
2009年の映像なので、現在のECMが力を入れているアーティストとはやや違う顔ぶれとなっているようです。

幸いなことにアイヒャーやサルーシ、ペルトはまだ存命ですが、かなり高齢になっています。
ECMコードーサウンズ&サイレンス」はこのレーベルの一時代を築いた人たちの最後の輝きが収められた映像なのかもしれません。
貴重な本邦での上映機会だと思います。