没後300年記念 英一蝶 ー風流才子、浮き世を写すー
■2024年9月18日~11月10日
■サントリー美術館
前後期あわせて90点近い作品が六本木に集結するという、いまのところ空前絶後とみられる英一蝶(1652-1724)の大回顧展です。
メトロポリタン美術館や東西の国立博物館といったメジャーなミュージアムの所蔵品から、個人のコレクション、さらに彼が配流された三宅島の神社に伝わった絵馬まで。
その徹底ぶりに唖然とさせられる展覧会でした。
英一蝶は元禄文化を代表する有名絵師ですが、遠島の刑に処された真相をはじめ、その経歴にはかなりミステリアスなところがあり、多くの「諸説」が語られる人物でもあります。
もともとは山城国、つまり京都で生まれた人です。
しかし江戸に下向した時期が判然としていません。
8歳説と15歳説が彼の年譜には併記されています。
およそ6歳くらいまでに発話の土台がつくられるともいわれますから、どちらの説をとるにせよ、一蝶は案外、上方のイントネーションを自在に操ることができた人かもしれません。
江戸に出た後、一蝶は狩野安信(1614-1685)の門下に入ります。
安信は探幽・尚信の弟で、成り行き上ではあるものの、狩野宗家である中橋狩野家の祖となった人物です。
弟子入りは一蝶が8歳か15歳のときなのか判然とはしませんけれども、いずれにせよ安信はすで壮年期を迎えていた大絵師ですから、それなりのコネがあったとはいえ、かなりの画力がなければ入門は許されなかったのではないかと推察されます。
一種の神童だったのかもしれません。
ところが、後に朝岡興禎(1800-1856)が著した『本朝画考』によると、一蝶は1668(寛文8)年、17歳のときに師匠安信から破門されたことになっています。
しかしその理由は図録所収の年譜をみても確認することができません。
浩瀚な『狩野派絵画史』(吉川弘文館刊)を執筆した武田恒夫(1925-2021)は同著の中で安信による破門に関し「画業上の問題ではなく、遊興生活での逸脱が目立ち破門された」としています(P.304)。
武田は破門の時期についても、1698(元禄11)年、47歳のとき、一蝶が二度目の入牢となった頃ではないかと推論していますから、朝岡興禎の記述より30年くらい遅いことになります。
ただ、この頃、既に安信は没していますから、破門されたとすれば、当然に師匠本人からではなく中橋狩野家一門から言い渡されたという解釈になるのでしょう。
今回の英一蝶展では武田説には言及されていませんし、これが通説とはなっていないようですが、武田の言にも一定の説得力があるように感じられます。
というのも、英一蝶の画風は、武田恒夫の言う通り、結局のところ近世初期の狩野派のスタイルを大きく逸脱するものではないからです。
偶然ですけれども、現在京都文化博物館では陽明文庫が蔵する狩野安信筆の「宇治拾遺物語絵巻」の一部が展示されています(〜11月24日)。
題材は中世の説話ですが、絵画自体は近世の眼で仕上げられた一種の擬古典的風俗画といってもよい小品です。
繊細な線描と色彩で端正に仕上げられた人物と情景が確認できます。
比較すると、一蝶の風俗画は確かに安信にはない生き生きとした才気が感じ取れはしますが、様式として師匠の画風をよく残しているともいえます。www.bunpaku.or.jp
一蝶の画風自体が中橋狩野家のそれから大きく逸脱していたとなれば、破門の理由は芸術的な問題ともいえますが、それが認められない以上、その原因は武田恒夫が指摘しているように一蝶の生活態度にあったとみることもできそうです。
しかし一方で、二人の偉大な兄と常に比較され、とりわけ長兄探幽に相当なコンプレックスを抱いていたと思われる安信が、若き一蝶の才能に嫉妬し我慢がならず破門したという小説的な理由も考えられなくはありません。
愉快に妄想が広がります。
ところで、彼が配流時代に描いた作品を称して使われる「島一蝶」という業界用語を私はどうしても好きになれません。
この絵師が「英一蝶」を名乗るのは徳川綱吉の死去に伴って行われた大赦によって配流先から江戸に帰還してからのことです。
「島」にいた頃、彼が自らを「一蝶」と名乗ったことは一度もないわけです。
「島一蝶」にはいかにも後世の好事家たちが得意気に編み出した言い回しとしてのいやらしい臭みを感じてしまうのです。
何より「出前一丁」と響きが似ているところが嫌です(このインスタントラーメン自体は好きですけれども)。
とはいえ、この時代に彼の代表作がいくつか制作されていることも事実です。
展覧会のアートワークを支配している「布晒舞図」も配流時代に描かれたとされる作品です(後期からの展示)。
今回、あらためてじっくり鑑賞する機会を得ました。
それほど大きな絵画ではないのに、びっくりするくらいの躍動感が伝わってきます。
踊っている女性の動きも素晴らしいのですが、この作品に驚異的な「動き」を与えている要素はむしろ左の囃し方、特に一番手前にいる鼓奏者の姿にあるように感じます。
まるで踊り手を後ろから文字通り鼓舞するように前へと乗り出すその姿勢。
彼の視線は女性の扇をもつ指先にまっすぐ向かっていて、画面全体の構図をかっこよく引き締めると同時に囃し方と踊り手を結んで右上へと鑑賞者の眼をシャープに誘導します。
見飽きることのない、素晴らしい傑作であることを再認識しました。
なお、所蔵する遠山記念館によれば、「布晒舞図」は実は配流される前に描かれたのではないかとする研究も近年現れているそうです。
英一蝶は結構意地悪な題材を好んで描いてもいます。
盲人を嘲笑しているような、現代ではポリコレ的に一発アウトとなる不謹慎系絵画もみられます。
「御室法師図」(個人蔵)は『徒然草』第五十三段に記された有名な仁和寺の法師に関するエピソードからとられた抱腹絶倒の絵画です。
江戸時代になると松永貞徳や北村季吟等による『徒然草』の注釈書がたくさん出回りますから、このお話もすでに庶民まで幅広く知れ渡っていたのでしょう。
宴会の座興にと調子にのって鼎(三本足の器)を頭に被ったところ抜けなくなって困り果てている法師の様子が描かれています。
徒然草原本には記述されていない、薬を調合している童子の様子に皮肉が効いています。
この後、強引に鼎を引き抜いたために法師にはとっても気の毒なことが起こるわけで、とても吉祥画とはいえませんが、稀代の幇間としても名を馳せた一蝶らしいサービス精神とペーソスが感じられる一幅です。
ほとんどが小さい作品で占められています。
この人は大きな屏風絵などを任されたときも、画面をいくつかの部分にセパレートしてしまい、それぞれに細かく情景を描きこむ手法を取りがちですから、もともと龍虎といった大画面に映える豪壮なモチーフを得意とはしていなかったのかもしれません。
メトロポリタン美術館から里帰りしている大作「唐獅子図」を見ても雄々しさより不思議な愛嬌が優勢です。
その表に描かれた「舞楽図」も宗達風にスケールを出すことはなく、様々な舞人たちをユーモラスにキャラクター化しているようです。
(この「舞楽図」のみ写真撮影OKとなっていました)
会場内は、猛烈に混雑しているというわけではないのですが、シニア客を中心としてかなり賑わっていました(平日)。
小品が多いためどうしても展示ケース前に行列が出来がちとなります。
しっかり鑑賞するためにはある程度余裕をもっておいた方がよろしいかもしれません。
なおこの展覧会はサントリー美術館単館での企画です。
非常に充実した画期的特別展ですが残念ながら他地域への巡回はありません。