平城京の「定規」|正倉院展2024

 

第76回 正倉院展

■2024年10月26日〜11月11日
奈良国立博物館

今年の正倉院展ではメインビジュアルに二枚の鏡が採用されています。
グリーンとゴールドの七宝で華麗に装飾された「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」と、聖武天皇ゆかりの品とされる典雅にシックな「花鳥背円鏡」です。

共に素晴らしい工芸品で、実際、現物には眼を奪われましたけれど、個人的に今回、特に面白かった展示は「尺」、すなわち奈良時代の「定規」でした。

「平螺鈿背円鏡」や「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶」など、特に豪華な作品が出陳された昨年の第75回展に比べると今回は少し地味目のラインナップかもしれません。
混雑ぶりは相変わらずではあるものの、気のせいかもしれませんが前回より人口密度がやや低く感じられました。

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聖武天皇(701-756)は724(神亀元)年、伯母の元正天皇(680-748)から皇位を受け継ぎ、24歳で即位しています。
つまり今年はその即位からちょうど1300年にあたるということになります。
正倉院の品々はこの天皇所縁の文物が当然に多いわけですが、今回は即位1300年を意識し、文字通り天皇が身近で使ったとみられる品が会場の冒頭近くで展示されていました。

「紫地鳳形錦御軾(むらさきじおおとりがたにしきのおんしょく)」がそれです。
縦80センチほどのクッションで、表面には鳳凰のデザインがあしらわれています。
国家珍宝帳』にも明記され、聖武帝は実際にこの肘掛クッションを使ったとされていますから、天皇が直接に手で触れ、親しんでいた品ということになります。
デリケートな染織品ですから後世の修復がなされているとは思いますが、それにしてもたいそう美しく保存されています。
ただ、さすがに文様のディテールは掠れが目立ち判然としない部分もあります。
今回は宮内庁正倉院事務所による模造品(株式会社ミネルヴァ制作)が並列して展示され、葡萄唐草の円紋とその中央に配置された鳳凰の姿をくっきり確認することができます。
くつろぐ天皇の姿がイメージできるようなユニークな逸品でした。
宮内庁が運営する正倉院HPの検索コーナーで「軾」とキーワード入力すると同種の宝物共々、画像が出てきます。

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さて、今回の展示ではガラスが使われている「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」の出陳にちなみ、この素材に焦点があてられたコーナーが設けられています。
小さい遺産が中心ですけれども、平城京を闊歩していた貴人たちの気配が感じられるような名品が並んでいます。

正倉院中倉に納められていたという「碧瑠璃小尺(へきるりのしょうしゃく)」と「黄瑠璃小尺(きるりのしょうしゃく)」は長6センチあまりの小品です。
色ガラスを素材とした装飾品の一種なのですが、そのデザインがとても面白いのです。
「尺」とあるように、この品は当時の物差し、「定規」を模ったものです。
「碧瑠璃小尺」は金泥、「黄瑠璃小尺」は銀泥によって定規の目盛が寸を単位として丁寧に描かれています。
目盛は碧が「二寸五分」、黄が「三寸」分、施されています。
尺ですからどちらの品も「寸」の長さが同じにならないとおかしいのですが、黄瑠璃の方が碧瑠璃より少し短いため、どうやら実用品というわけではないようです。
一箇所、小さい穴が開けられていて、そこに紐を通し、腰から吊るしたと考えられています。
とても単純なデザインです。
そこがむしろ現代でも通用しそうなくらいモダンな美に通じているように感じられます。

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先述した聖武帝の肘掛クッションと同様、この「小尺」も現代の名工による復元品が並列展示されています。
工芸家で古代ガラスの復元仕事で著名な迫田岳臣が手がけたというその模造品も大変美しいものでした。
特に碧瑠璃小尺は緑色のガラスと金の取り合わせが美しく、とても1000年以上前のデザインとは思えません。
迫田岳臣によれば着色材の配合率やガラスを溶融させる環境に苦心したのだそうです。
当時の工房ではこんな小さい品を制作するにも1週間程度は必要だったのではないかとも推察されています。
正倉院の現物には復元品にはない独特の深みと気品が漂っているようにも感じられました。

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今回はいつも楽しみにしている正倉院のペーパーナイフとでもいうべき「刀子」の単体展示がありませんでした。
その代わり、二本ペアの「黄楊木把鞘刀子(つげのきのつかさやのとうす)」が、実際、当時の貴人たちが身につけるために用いた帯とセットで紹介されています(刀身の展示はありません)。
ガラス製の小尺もこうした刀子などと一緒に平城京紳士たちのお洒落道具として活躍したのでしょう。

刀子は実用的な品でもありますが、「尺」は先ほどみたように、実際に事物の長さを測るために身につけていたとは考えにくい品です。
実は「尺」そのものに宮中儀礼に関係した象徴物としての役割があったと考えられています。

目録(正倉院展では「図録」のことをこう呼称します)P.36に書かれた奈良博の北澤菜月室長による解説によれば、唐代の中国では毎年旧暦二月に皇帝から臣下に対し「ものさし」を下賜するという年中行事があったのだそうです。
旧暦二月は昼夜の時間が等しくなる春分にあたるため、度量衡を正すと同時に臣下の行いをも正すという意味がこめられたセレモニーでした。
つまり「尺」自体が皇帝から贈られた、身を律するための品物という象徴性を帯びていたことになります。

今回はその中国で制作されたかもしれないという、鮮やかなレッドの至宝「紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)」も出陳されています。
これは先ほどのガラス製「小尺」とは違い、撥鏤技法で染め上げられた象牙が使われている超豪華品です。
「小尺」がアクセサリーであったのに対し、こちらはおそらく正式な儀礼の場で用いられたと考えられています。
いずれにせよ、「長さ」や「重さ」といった度量衡の決定は、時間を司る暦と共に統治上、極めて重要な要素です。
そうした権威的な象徴性を帯びながらスマートな装飾品として「小尺」を奈良時代の貴顕たちは楽しんでいたのでしょう。
天平のイメージが新たに広がる品々でした。

他にも品格のあるグリーンの彩色とシンメトリーなデザインが美しい「緑地彩絵箱(みどりじさいえのはこ)」や、豪奢な装飾性とモダンなセンスを兼備した超絶技巧的逸品である「沈香画箱(じんこうもくがのはこ)」などなど、いつまでも眺めていたくなる品々が取り揃えられていました。

なお、毎度のことではありますが、写真撮影は全面的に禁止されています。
日時指定予約制が継続されています。
また今回も「レイト割」が設けられていて、遅めの時間帯を指定すると500円安くなります(一般料金)。
夕方になるほど混雑は緩和する傾向にありますから、このディスカウント制度を使ってみるのもよろしいかもしれません。