「柔らかい殻」デジタルリマスター版|フィリップ・リドリー

 

フィリップ・リドリー(Philip Ridley 1964-)監督・脚本による1990年制作の映画「柔らかい殻」(The Reflecting Skin )が10月上旬より各地のミニシアターでリバイバル上映されています(提供:マーメイドフィルム 配給:コピアポア・フィルム)。

公式HP等では情報が確認できなかったのですが、2015年に監督の承認を得てデジタルリマスター版が制作されているようです。
今回の上映もそのバージョンが使用されているのかもしれません。
リマスタリングにより30年以上前の作品とは思えない鮮烈な美観が再現されていると感じました。yawarakaikara2024.jp

 

日本では1992年に劇場公開されています。
公開当時からカルト的人気を得た作品なのだそうです。
私は今回、初めて鑑賞しました。

その映像美にまず驚きました。
この映画はほとんど「時間」が移ろいません。
秋の午後4時頃でしょうか、太陽が輝きをやや減じつつもその黄金色を失わない光の中でほぼ常に物語が進行していきます。
朝の爽快な空気や、カラリとした真昼の強い光、あるいは夜中の漆黒はほとんど画面に表されません。
黄昏前の光線に照らされた広大な麦畑。
その穂並がつくりだす水平線の上には青空が直に接しています。
山も海も谷も川もほとんどない、フラットな地平が世界のフレームを決定づけているかのようです。

映画の中で具体的に説明はされていなかったと思いますが、物語の舞台はアメリカ、アイダホ州の田舎町。
時代設定は1950年代ということになっています。
奇妙に現実と非現実の境目を描くような独特の映像スタイルが貫かれています。
すぐにエドワード・ホッパー(Edward Hopper 1882-1967)が描いたような世界、つまりマジックリアリズム的な空気感を覚えました。

黄金に輝く麦畑の美しさと共に、極めて印象的にとらえられているイメージがあります。
主人公の少年セスを演じたジェレミー・クーパー(Jeremy Cooper 1980-)の瞳です。
透明度の高い瞳孔に一点の光が写りこんでいます。
曇りの全くない子供の眼だけがもつ美しさと純粋さに、逆に、慄然としました。
禍々しいまでに美しく、そして恐ろしいアート&ホラー映画です。

 


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マジックリアリズム的なその映像と同じくらい、筋書きも現実と神秘が境目なく混淆していきます。
いかにもアメリカの田舎町で育ちつつある悪童といった三人組の少年たちが、大きなカエルを使った残忍な悪戯を、ある女性に仕掛けるところから物語はスタートします。
純真な子供たち特有の残酷さからなのか、あるいは異様に開放的にもかかわらずむしろ閉塞感を漂わせている土地自体から放たれる瘴気のせいなのか、この極めて悪趣味な冒頭シーンに「柔らかい殻」という映画自体のモチーフが濃厚に反映されています。

不吉にさまざまな主題が組み合わされながらストーリーが展開します。

直接的に凄惨な場面は描写されないものの、子供たちに対する猟奇の所業が繰り返される映画です。
突然現れた黒いキャデラックに乗る若い男たちによる犯行。
とても忌まわしいテーマがストーリーを動かしていきます。

寂れたガソリンスタンドを営むセスの父親は、どうやらかつて男子児童にキスをしてしまったという過去をもっているため、第一の犠牲者を殺害した犯人として警察に疑われ、追い詰められた挙句に壮絶な自死を選択。
「過去」が濃密に共有されている田舎ならではの悲劇ということなのでしょう。
土地自体は何も遮蔽物がないくらい開放的なのに、ここに暮らす人々のつくりだす世界はひどく狭隘に歪んでいるようです。

リンジー・ダンカン(Lindsay Duncan 1950-)が演じている、セスたちにカエルの悪戯を仕掛けられた女性ドルフィン・ブルーは夫に先立たれたらしい謎の人物。
麦畑に佇む一軒家で一人暮らしをしています。
ややメンタルに問題を抱えているとみられるこの女性は、「自分は200歳だ」と語り、それを信じ込んだセスは彼女を「吸血鬼」と勝手に断定。
現実的にみてドルフィンが200歳の吸血鬼であるわけがないのですが、なぜか観ているこちら側もセスの心境とシンクロしていってしまいます。
セスの父親が読んでいたナンセンス小説の表紙にまるでドルフィンをヴァンパイアに仕立てたような絵が描かれているため、少年の思い込みが実は真実なのではないかというイメージがこちら側の心象に侵入してきてしまったりするからなのでしょう。

柔らかい殻」はホラー映画に分類されるとは思いますが、断じて「ファンタジー」ではありません。
描かれているいかにも不可思議な光景は説明しようと思えば全て現実的に説明がつきます。
予告篇でも登場していた、奇妙な声をだしながら歩いている二人の女性は、英語圏以外の場所から来たばかりの移民だとすれば、セスにとっては彼女たちの発話が意味不明の響きとしてまるで鳥の声のように聞こえたとしても不思議ではありません。
納屋に隠されていた胎児の死骸も、いわゆる「屍蝋」と考えると、どういう理由でそうなったかは別にして、ありえる状態ともいえます。
この映画には、現実をはぐらかせるための罠がたくさん仕掛けられているのです。

ヴィゴ・モーテンセン(Viggo Mortensen 1958-)が演じるセスの兄キャメロンは軍役から帰還した青年という設定です。
彼はおそらく南太平洋あたりの島々で任務についていたのでしょう。
かつてそこで繰り返されていた米軍による核爆発実験の様子を詩的に語っています。
ドルフィンと恋仲になったキャメロンは、やがて痩せ細り、毛髪が抜けやすくなっていきます。
セスはそれを吸血鬼ドルフィンによって兄の血が吸われているためだと確信しているのですが、その真の原因は核実験の被曝によるものなのでしょう。
でも、観ているこちら側はそうした「現実」が想像されるにも関わらず、なぜか少年セスと同じ恐怖を感じてしまうのです。
鮮やかに恐ろしいマジックリアリズム表現が映画の中で達成されています。

セスの隠蔽行為と、いわゆる「未必の故意」によって、結果的にドルフィンもまた、黒キャデラックの男たちの手にかかってしまいます。
屍蝋化した胎児を、亡くなった悪友の生まれ変わりと思いこんで話し相手とするほどに「現実」と「神秘」の境界が溶融してしまっていたセスは、ドルフィンの遺体に泣き叫びつつ抱きつく兄キャメロンの姿をみて、ついに本当の意味での「罪」を強烈にはっきり自覚することになります。
父や友達が死んでも涙ひとつこぼさなかったセスに、初めて「世界」が本当の姿を現した瞬間です。
これほど凄惨な「成長物語」のラストシーンもないのではないでしょうか。

撮影を担当したディック・ポープ(Dick Pope 1947-2024)は惜しくもつい最近、今年の10月に亡くなったようです。
アメリカを舞台としながら、どこか虚構美を感じさせるこの映画は、監督と撮影監督が共に英国人ということに起因しているのかもしれません。

美しくも恐ろしい闇の叫びがいつまでも響き続けていくかのような、素晴らしい作品でした。