企画展 ハニワと土偶の近代
■2024年10月1日〜12月22日
■東京国立近代美術館
東京国立博物館で開催されている大盛況の「はにわ」展(10月16日〜12月8日)とほぼ同じタイミングで開催されている、東近美の「ハニワ」展です。
約半世紀ぶりとなる規模の東博展は、文字通り埴輪そのものの魅力をストレートに伝えようとしている企画です。
一方、東近美展ではこの埋蔵文化財が、主に明治以降の近代、「どのようにみられてきたのか」という点にスコープが絞られています。
一見、いかにも両館が気脈を通じたコラボ開催のようにみえますけれども、「カワイイ」「ユルイ」といった埴輪の魅力が全開している上野に対し、竹橋では、近代において様々にその役割を変容させた埴輪の複雑な受容史が、しっかり「苦味」も含めて展開されています。
企画の意図が全く異なっていますから、埴輪が主たるテーマとして共通してはいるものの、実態としてみた場合、二つの展覧会はほとんど関係していないといってよいのではないでしょうか。
とても面白い事象です。
東博と東近美は共に国立のミュージアムではありますが、前者は独立行政法人「国立文化財機構」に、後者は独法「国立美術館」に属していますから、そもそも組織的にガッツリ連携している関係にはありません。
東博「はにわ」展は考古、東近美「ハニワと土偶」展は近現代美術と、担当キュレーターが専門とする分野も全く異なっています。
お互いの展覧会が挨拶文などにおいて「協働」を特にアピールしているわけでもありません。
にも関わらず、いかにも開催時期を合わせたかのようになっているのは、おそらく両展に共通して主催者として参画しているNHKとNHKプロモーションの意向が影響したのでしょう。
このあたりの事情はちょっと生々しそうなので深掘りは避けますが、結果として都内でこの秋、滅多にお目にかかれない「大埴輪祭」が実現したわけであり、一鑑賞者としては感謝しかありません。
さて、この「ハニワと土偶の近代」展のキーアートとして採用されている作品があります。
近代京都画壇の巨匠、都路華香(1871-1931)による「埴輪」(1916)です。
華香の作品が東近美展覧会のメインビジュアルを飾るのは、おそらく2007年に開催された大規模な回顧展以来なのではないかとみられます(京都国立近代美術館・笠岡市立竹喬美術館でも開催)。
二曲一双の屏風絵「埴輪」は第10回文展で特選を受けた、華香を代表する作品の一つです。
所蔵している京都国立近代美術館のコレクション・ギャラリーでときどき展示されるので京都ではお馴染みの作品なのですが、なぜ東近美入魂の企画「ハニワと土偶の近代」で一際目立つキーアート扱いを受けているのか、やや奇異な印象を受けていました。
このテーマであれば、むしろ岡本太郎やイサム・ノグチといったアーティストによる作品の方が訴求力がありそうにも思えたからです。
ユニークに朗らかさが漂う都路華香の「埴輪」はたしかに魅力的ではありますが、展覧会の顔を決めるインパクトという点ではやや弱いようにも正直感じていました。
しかし、この展覧会の特に序盤において示されている、戦前までの埴輪が担っていた役割を考えたとき、「華香の埴輪」が別の色彩を帯びてきていることに気がつくことになりました。
なぜ都路華香は埴輪をモチーフとした絵画を描いたのか。
その時代背景を知ると、一見、屈託がない明朗なこの屏風絵に面白い気配が感じられてくるのです。
都路華香は竹内栖鳳(1864-1942)、菊池芳文(1862-1918)、谷口香嶠(1864-1915)と共に幸野楳嶺(1844-1895)門下の「四天王」と呼ばれた逸材でした。
華香は四天王の中で最も若いのですが、楳嶺への弟子入り時期は逆に最も早く、小学生だった幼い華香を楳嶺はとても可愛がっていたのだそうです。
生家が貧しくなるとその画塾に通えなくなるなど苦労をした人で、一時は精神的にもかなり追い詰められていたそうなのですが、建仁寺の竹田黙雷(1854-1930)から臨済禅を学ぶうちに健康をとり戻し画業を盛んにしていったことでもよく知られています。
「埴輪」の発表時、華香は45歳。
壮年期を迎えた画家の自信が感じられる作品です。
ところで、東近美の花井久穂主任研究員がこの都路華香「埴輪」に付したキャブションに気になることが記載されていました。
以下に少し引用してみます。
「この絵が描かれる数年前、明治天皇の京都の伏見桃山陵の造営が始まっている。千数百年途絶えていたハニワ作りが復活し、彫刻家の吉田白嶺による新作のハニワの記事が連日、新聞を賑わせた。」(東京国立近代美術館「ハニワと土偶の近代」展図録P.54)
解説文にある吉田白嶺(1872-1942)による「新作」埴輪については、ちょうど東博で開催中の「はにわ」展における最終コーナーにおいて、実際に桃山御陵に納められたものと同時期(1912・大正元年)に制作された「武人埴輪」の模型として観ることができます。
東博の品川欣也学芸研究部室長の解説によれば、連日新聞各紙によって報じられた明治天皇の葬儀に伴い、埴輪も人々にもてはやされ絵葉書や玩具まで制作されたのだそうです。
吉田白嶺を監修者として埴輪をモデルとした教育教材が島津製作所から販売されるなど、突如として埴輪ブームが巻き起こっていました(東京国立博物館「はにわ」展図録P.222)。
大正5年に発表された都路華香の「埴輪」は、この大正初期における埴輪ブームの空気を伝える作品でもあったわけです。
実はこの「埴輪」については、華香らしい明快な画風の面白さはあるものの、なんとなくマンガ的にも見える老埴輪師(野見宿禰とみられます)の表情などに少し違和感を覚えていました。
しかし華香がこの絵を描いたとき、埴輪には古代と新しい時代を直接繋ぐような明るいイメージが付与され、それが世情に満ちていたと考えると、作品全体から漂う奇妙なまでの明朗さにも納得することができます。
栖鳳に代表される、この時期の京都画壇らしい繊細な写実美からかなり遠いこの作品が文展で高く評価された背景にも、当時の埴輪が帯びていたポジティブなイメージが影響したと類推することもできそうです。
「埴輪」が特選を受けた第10回文展では、村上華岳(1888-1939)と小野竹喬(1889-1979)も特選を受賞しています。
華香より一世代若い画家たちがすでに台頭しつつあり、華岳と竹喬はこの後、すぐに土田麦僊(1887-1936)等と国画創作協会を立ち上げ、大正期の京都画壇を席巻していくことになります。
華香の「埴輪」は、その明快さがむしろ昭和初期の新古典的モダンに通じているようにもみえますが、国画創作協会の画家たちが生み出した濃厚な官能美の世界より前に描かれた作品です。
華香のもっていた画風の進取性が、埴輪の簡素な美によって端的に示された作品といえるかもしれません。
しかし、都路華香が率直愉快に描き出した埴輪のイメージは、皮肉なことに戦前戦中期を迎えるとナショナリズム、そして軍国主義的な文脈に絡めとられていくことになります。
「ハニワと土偶の近代」展では、かつて埴輪が担わされてしまったこうした苦いイメージも詳細に回顧していてとても見応えがありました。
ただ、やや全体的に「ハニワ」に比重が偏っているところもあって、「土偶」については今回、少し脇役にまわってもらったような印象ではあります。
写真撮影については作品単位で細かく可否が指定されているのでちょっと注意が必要です。
大賑わいとなっている上野の「はにわ」展に比べると、混雑度合いは低いと思いますが地味なテーマの割に入場者が途切れることはありませんでした(平日)。
東博展の効果はやはりあったようです。
東近美展を観た直後に東博展をみると複雑な歴史的イメージが実物埴輪に付着するので、純粋に楽しく埴輪を鑑賞するのであれば、まず東博、それから東近美の順が穏当なような気もしますけれど、そこは両展のプロモーションを担う公共放送さんがちゃんと配慮しています。
東近美展ではエントランス近くに「はに丸」と「ひんべえ」が登場。
暗い戦前埴輪のイメージをちゃんとリセットしてくれます。
どちらを先に鑑賞しても面白さに変わりはないようです。