キノフィルムズの配給でトマ・カイエ(Thomas Cailley 1980-)監督による「動物界」(Le Règne animal 2023) が11月初旬から全国公開されています。
さまざまな意味で「設定」がとても秀逸な映画だと思いました。
以下、雑感です。
人間が動物に変身していくという奇病が流行している世界が描かれています。
モンスター「狼男」に代表されるように、こうしたテーマは昔から存在している古典的なファンタジー、スリラー映画にみられたものです。
目新しいものではありません。
未知の奇病という設定も、さほど珍しくない、近未来系SFでよく登場するモチーフです。
「動物界」は、一見、ずいぶんと使い古された設定が採用されているように思われる映画です。
ところが、この映画から実際に受ける印象は、ありきたりなSFホラーとはかなり違うのです。
それは、おそらく「動物界」が、徹底して「途中」を描いている作品だからなのではないかと考えています。
一般的に「奇病系」の物語は、まずその病気がどのように始まり蔓延していくかが丹念に説明されていくわけですが、この映画はその重要な「始点」に全く触れていません。
ストーリー展開上、必須となる「見せ場」をごっそりとまず落としているわけです。
映画が設定している状況は、すでにこの奇病が十分に認知されている事後の世界なのです。
人間が動物にメタモルフォーゼしていくという、とんでもなく珍奇な現象について、映画内の登場人物たちは、すでにある程度「慣れ」ています。
こうした設定は、モチーフ自体がありきたりなだけに、逆にとても新鮮に感じられます。
さらに、この映画は「奇病」自体の正体についてほとんど説明しません。
パンデミック・パニック系の映画では、病気自体の原因究明とその治癒方法の確立がストーリーを展開させていく上で大きな要素になります。
しかし「動物界」では、結局、どうしてこのような病気が発生したのか、その原因が語られることがないのです。
病原菌やウィルスによる感染症なのか、遺伝子の突然変異が何らかの因子によって起こっているのか、何も説明されていません。
当然にその治癒方法も見つけられないままです。
つまり、この映画は「奇病」を描いていながら、それ自体についての解釈を鑑賞者側に放り投げていることになります。
必然的に、観ている側は奇病に関してさまざまなメタファーを読み取ろうとします。
コロナに代表される感染症、放射能や化学物質汚染、あるいはマイノリティー差別の問題などなど。
奇病に託した隠喩的効果は監督トマ・カイエの意図として明確です。
ところが、では「動物界」が、説教臭い似非社会派映画なのかといえば、不思議なことに全くそういう印象を受けることもないのです。
ほどよくそうしたメタファーを匂わせながら、映画の外見はきちんとSFホラー系エンタテインメントの体裁を維持していて約2時間近い尺を長いと感じさせることがありません。
見事な手腕だと感じました。
パンデミック系の物語は、その治癒法の確立とヒーロー的存在の登場によって病気が終焉に向かうか、あるいは人類がいったん病気に敗れた後、「最後の希望」的存在によって未来への光明が見える、というような「終点」が置かれることが多いように思います。
でも「動物界」はそうしたクリシェ的ゴールを描きません。
奇病は奇病のまま治癒法が確立されることはなく、登場人物たちがハッピーにしろバッドにしろ、明確な「終わり」を迎えることもありません。
この映画の設定には「始点」も「終点」もないのです。
全ては「途中」の状況にあります。
そこが、「動物界」最大の魅力と感じました。
主人公である父フランソワを演じたロマン・デュリス(Romain Duris 1974-)と息子エミール役のポール・キルシェ(Paul Kircher 2001-)の高い演技力も見どころの一つでしょう。
この映画は息子のメタモルフォーゼ描写にまず目がむいてしまいますけれども、実は、一番「変容」しているのは奇病には罹っていない父の方であるというところに妙味があります。
妻が「新生物」に変わってしまったことを受け入れられていなかったフランソワが、最後の場面において息子エミールにとった行動にそれが如実に表現されていました。
デュリスがみせた、苛立ちから怒り、そして共感から確信へと変容していく父親の顔に惹き込まれました。
ポール・キルシェは前作「Winter Boy」(Le Lycéen 2022)での繊細な演技も素晴らしかったのですけれども、この映画でも身体に起きてくる異変に戸惑いながら順応していくという複雑な状況を見事に体現しています。
「Winter Boy」は映画としては説明臭が強すぎてそれほど感銘は受けなかったのですが、「動物界」は彼が今もっている魅力を存分に引き出しているように感じます。
予告編において、エミールが「鳥」になってしまうことを予感させる描写がありましたが、それは「ひっかけ」でした。
こうした細部を含め、事前の予想と鑑賞後の印象がかなり違う映画です。
南仏で行われる聖ヨハネ祭で竹馬に乗ったような格好で歩く人物の姿が、カマキリに姿を変えようとしている人間と重ねあわされる描写があります。
昔から人間は自ら「新生物」になりたいという願望を恐れながらももっているからこそ、こうしたテーマの物語が繰り返し登場するのかもしれません。
「動物界」は人間が「人間以外の動物」に変容することが描かれている映画です。
しかし、人間が「人間」としてメタモルフォーゼする方がよほど面白いことが描かれている映画でもありました。