禅寺の茶の湯
■2024年9月14日〜11月10日(I期)・2024年11月17日〜2025年2月2日(II期)
■相国寺承天閣美術館
相国寺は承天閣美術館の開館40周年を記念し、今年から来年にかけて名古屋(愛知県美術館)と東京(東京藝術大学大学美術館)で大規模な「相国寺展」を主催しています。
応挙の傑作等を含むたくさんの寺宝がそちらに出張しているわけですが、今出川の本家でもちゃんと豪華なラインナップの展示品で別の企画展を並行して開催。
相国寺の余裕と貫禄を感じさせる「茶の湯」展です。
II期からはメインビジュアルにもなっている「玳玻散花文天目茶碗」が登場しています。
旧萬野美術館からの寄贈品とはいえ、相国寺を代表する名品の一つですから、てっきり名古屋の出開帳展に出張していたと思っていましたが、この国宝は京都にとどまることになったようです。
その他にも中国・朝鮮陶磁や、室町から江戸期にかけての多彩な品々が展示室内を埋め尽くしています。
中でもとりわけ興味深い展示がありました。
「寛政の茶会 慈照院頤神室」と題されたコーナー(第三章)です。
慈照院は相国寺境内からやや離れた北西にある塔頭。
地下鉄鞍馬口駅の南、市立烏丸中学校の北側あたりに位置しています。
それなりの広さがあるお寺なのですが通常は非公開となっていて、門前の私道にも立ち入り禁止の立て看板がありますから、中の様子をうかがうことはほとんどできません。
寺の名前は室町幕府八代将軍足利義政(1436-1490)の法号「慈照院喜山道慶」からとられたものです。
義政が建てた東山山荘、つまり銀閣寺の正式名称が「慈照寺」ですから、紛らわしいのですが、彼の墓所自体はこちら「慈照院」の方にあります。
江戸時代初期、慈照院住職であった昕叔顕晫(きんしゅくけんたく)が建てたとされる茶室「頤神室(いしんしつ)」が現在でも残されています。
昕叔顕晫は茶室の設計にあたり、千宗旦(1578-1659)に相談していました。
この宗旦好みで造られたという茶室は、非常に有名な「宗旦狐」のエピソードに登場する場所としても知られています。
相国寺鐘楼のすぐ東側に「宗旦稲荷」があります。
ここに、その宗旦狐伝説について相国寺自身が記した由緒書が駒札として立てられています。
以下に引用してみました。
「江戸時代の初め頃、相国寺の境内に一匹の白狐が住んでいた。その狐はしばしば茶人・千宗旦(一五七八 ー 一六五八)に姿を変え、時には雲水にまじり座禅を組み、また時には寺の和尚と碁を打つなどして、人々の前に姿を現していた。
宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては茶を飲み菓子を食い荒らすことがたびたびであったが、ある時、宗旦狐は相国寺塔頭慈照院の茶室びらきで、点前を披露していた。驚いたことにその点前は実に見事なもので、遅れてきた宗旦は、そのことに感じいったという。これも宗旦の人となりを伝えた逸話である。
その伝承のある茶室「頤神室」は現在でも慈照院に伝えられている。茶室の窓は宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室の窓より大きくなってしまったという。
宗旦狐は店先から油揚を盗み、追いかけられ井戸に落ちて死んだとも、猟師に撃たれて命を落としたとも伝えられている。化けていたずらをするだけでなく、人々に善を施し喜ばせていたという宗旦狐の死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養した。それが今でもこの宗旦稲荷として残っている。
相国寺」
今回の展示ではこのエピソードが語る慈照院頤神室に現れた「宗旦狐」の姿を描いた一幅が紹介されています(初公開)。
誰が描いたのかわからない、さらりとした江戸時代の白蔵主系とみられる絵画です。
なんと今でも頤神室の床掛けに用いられているそうです。
千利休の孫にあたる宗旦は今につながる三千家の祖です。
彼は昕叔顕晫に加え、相国寺の実力者、鳳林承章とも親しく交わっていました。
利休事件の記憶もまだ生々しく残る時代に、息子たちを次々と大名家に仕えさせ、茶道繁栄の礎を築いた千宗旦という人物が帯びていたミステリアスな魅力がこうした逸話につながったのかもしれません。
さらに慈照院にはややホラーめいた逸品が伝えられています。
コーナーのタイトルである「寛政の茶会」とは寛政年間(1789-1801)に頤神室で開かれた茶事を記録した『頤神室茶会記』に因んでつけられたものです。
今回初公開されているこのドキュメントには当時使われた茶道具などがしっかり記録されていて、足利義政が所持していた古瀬戸の茶入といった名品もたびたび使用されていたことがわかります。
さて、その頤神室茶会で実際に用いられた「水指」として「緑釉四足壺」があり、今回展示されています(通期)。
この壺は織田長益(有楽斎 1547-1622)から昕叔顕晫へ贈られた品で、以来慈照院に伝来しました。
『頤神室茶会記』寛政4年10月21日の記録に「有楽寄附 高麗ほかい水指」として登場します。
しかし有楽斎は、ある意味、とんでもない勘違いをしていたようなのです。
「緑釉四足壺」は、朝鮮からの渡来品ではなく、実は平安時代、愛知の猿投窯で焼成された国産の「骨壷」だったのです。
同型の壺は九州国立博物館等にも収蔵されていますから当時、ある程度たくさん焼かれたものと思われます。
しかし、なぜかこの壺が有楽斎の頃には高麗の食器とみなされ、茶の湯の水指として使われることになったわけです。
時代としては9世紀に遡る貴重な埋蔵物であり、重要文化財に指定されています。
「寛政の茶会」ではこの壺をまさか埋葬用の品と認識してはいなかったと思われますが、知っていたとすれば、それはそれで不気味な話ではあります。
宗旦狐と平安の骨壷水指。
慈照院に伝わるミステリアスな事物は、ひょっとするとここに眠る足利義政が呼び寄せたのかもしれません。
なお展示品の写真撮影はいつもの通り全面的に禁止されています。
平日の昼間、II期の会期始めということもあってか、かなり閑散としていましたが、その分、じっくり国宝天目などと向き合うことができました。
とても充実した企画展だと思います。