チャイルド・フィルムの配給でナンニ・モレッティ(Nanni Moretti 1953-)監督作品「チネチッタで会いましょう」(Il sol dell’avvenire 2023)が11月22日より首都圏と京阪神の映画館を中心に公開されています。
例によってモレッティ自身が出演しつつ「映画を作る監督を描く映画監督」として縦横無尽に虚実をかき回していくというコメディ。
モレッティ版「8 1/2」といったところでしょうか。
イタリア語の原題は"Il sol dell’avvenire"、英語版は"A Brighter Tomorrow"です。
これらを直訳して公開タイトルとした場合、「未来の太陽」とか「明るい明日」という、なんだかわけがわからない教養映画のようにみられてしまう可能性があるため、この国のマーケットでは訴求力がないと判断されたのでしょう。
ただ邦題である「チネチッタで会いましょう」も、一見、かなり苦しいネーミングのように感じます。
というのも、この映画は、たとえばフェデリコ・フェリーニが晩年に監督した「インテルビスタ」のようにチネチッタそのものを主題とした作品ではないからです。
映画で描かれる「映画内映画」の部分については、実際にチネチッタでセットが組まれていて、その撮影風景も随所に登場するのですが、あくまでもそれは物語の背景であって、フェリーニが意図したような「映画愛が写りこむ現場としてのスタジオ」そのものが描かれているわけではありません。
実際、ロケにはローマ市街等、チネチッタ以外の場所も豊富に登場しています。
とはいうものの、「チネチッタで会いましょう」の中でモレッティが演じる映画監督ジョヴァンニの口からは、おそらくモレッティ自身の映画に対する作家としての思いが頻繁に語られていて、数多くのフィルムや監督の名前を確認することができます。
モレッティ自身の映画愛が充満しているという文脈で考えればこの邦題もあながち的外れとまではいえないのかもしれません。
映画の中で描かれる「映画内映画」は1956年に起きた「ハンガリー動乱」を背景にもっています。
監督ジョヴァンニは、このハンガリーの民衆蜂起に対するソビエト連邦の軍事侵攻によって当時のイタリアに生じたある皮肉な状況を題材に、一編の捻りを効かせた社会派歴史ドラマを創造しようと企てたようです。
動乱発生時、イタリア共産党(PCI)のある地域支部がたまたまハンガリーから招いていたサーカス団についてどのように対処するか、悲喜交々の人物模様を写す映画として制作が進んでいきます。
「チネチッタで会いましょう」は、この「映画内映画」を、あるときは本気で映像化するようなそぶりを見せながら、監督ジョヴァンニの家庭環境や映画制作に関して発生するドタバタしたアクシデント、ジョヴァンニ自身の夢や幻視がシームレスに連続していきます。
1956年当時の風景が、突然、現在進行している撮影シーンに切り替わったかと思えば、ジョヴァンニの「期待」がそのまま周囲をファンタジーの世界に巻き込み奇妙なミュージカル風のシーンにシフトしてしまうなど、モレッティの悪戯的話法が溢れている映画です。
全く難解な作品ではないのですが、「映画監督を演じる映画監督」とその人間関係がさらに俯瞰されているようなメタ構造をもっていますから、いったい本当のモレッティはどこにいるのか、次第に曖昧になっていきます。
そこがこの映画の最も面白いところではないかと思います。
映画ファンを喜ばせそうな小ネタ的要素がたくさん散りばめられている点も魅力的です。
ジャック・ドゥミの「ローラ」やフェリーニの「甘い生活」からの映像が直接的に引用されたり、スコセッシやカサヴェテスの名前も登場します。
最も面白かったのは、「暴力シーンの映画芸術的昇華」について語られる場面でしょうか。
モレッティ演じる監督はなんとレンゾ・ピアノ本人に意見を求め、そうした例の典型としてコッポラの「地獄の黙示録」を彼に挙げさせています。
本当にこの建築家がそう思っているのかどうかはわかりませんが、モレッティとレンゾ・ピアノの親密ぶりが伝わってきてびっくりしました。
監督ジョヴァンニは一言でいえばものすごく面倒な男です。
俳優の履き物が気に入らないと文句を言い続けたり、他人が監督している映画の撮影現場で自身の映画理論を押し付けた挙句、延々とスタッフたちを拘束。
映画プロデューサーである彼の妻(マルゲリータ・ブイ)は、いちいちもっともらしい理屈をこねて反論を許さないジョヴァンニとの生活にうんざりし離婚を決意する始末。
70歳を迎えていたモレッティは、ひょっとすると今までの自分自身の姿を自虐を含めてジョヴァンニに投影しているのかもしれません。
妻に別離を言い渡され、「映画内映画」が予定していた結末の悲惨さにようやく気がついたジョヴァンニは、実際の歴史を無視し、PCIがハンガリー動乱に抗議してソビエト共産党と決別するというシナリオに変更し、物語はあり得ない多幸感に包まれながら大団円を迎えることになります。
サーカスのバンドによるマーチが奏でられる中、過去のモレッティ映画に登場した俳優たちを含めて出演者全員が行進するフィナーレは、言うまでもなくフェリーニの「8 1/2」をオマージュしているのでしょう。
音楽もどことなくニーノ・ロータ調です。
Netflixに対するあからさまに皮肉めいた批判や、PCIへの郷愁といった政治的メッセージに抵抗感を覚える鑑賞者クラスターが当然想定されたにも関わらず、あっけからかんと行進の先頭を歩くジョヴァンニ=モレッティの姿に半ば呆れつつも、なぜか感動してしまうラストシーンでした。
重厚なヒューマンドラマだった前作「三つの鍵」とは対照的な楽屋オチ的な作品ですが、モレッティらしさという点ではこちら、「チネチッタで会いましょう」の方が本来の彼のスタイルを象徴しているのかもしれません。