松谷武判 Takesada Matsutani
■2024年10月3日〜12月17日
■東京オペラシティ アートギャラリー
松谷武判(1937-)のお誕生日は1月1日です。
まもなく88歳となるお正月を迎える人ですけれど、現在でも新作を発表する等、先鋭に活動を継続している現役のアーティストでもあります。
「具体」に入る前の非常に珍しい初期作品から代表作の数々、そして最近の制作まで、文字通り作家の全貌に迫る充実の企画展。
圧倒的に素晴らしいレトロスペクティヴに仕上がっていると感じました。
今から9年ほど前、2015年に西宮市大谷記念美術館が開催した「松谷武判の流れ」展以来の規模となる大回顧展だと思います。
大阪阿倍野区に生まれ、1966年に渡仏してからはパリと西宮、二つの拠点を往復しながら作品を制作している関係から、兵庫を中心とした関西方面にどちらかというと由縁がある作家です。
今回の企画でも「出品協力」として芦屋市立美術博物館が多数の館蔵品を初台に提供していました。
2015年の香櫨園展も約150点ですからそれなりの規模でしたが、今回は大小織り交ぜつつ200点近い作品が揃えられています。
オペラシティがアナウンスしている通り、過去最大規模の個展なのでしょう。
2017年にはヴェネツィア・ビエンナーレを舞台に大掛かりなインスタレーション(「流れ-ヴェニス」)を発表、2019年にはポンピドゥー・センターで個展を開催したそうですから、現在、「具体」出身の「現役作家」としては最も世界的成功を収めている人といえるかもしれません。
14歳で結核に罹患した松谷は、入退院を繰り返す中、日本画を学んでいた大阪市立工芸高校の中退を余儀なくされています。
悲惨な青春時代を想像させますが、この頃に病床から眺めていた室内の「木目」などがその後、彼の芸術に大きな影響を及ぼすことにもなったようです。
20歳のときに西宮で開催された市展で入選を果たしことをきっかけに画家荒尾昌朔(1906-1964)の目にとまり彼に師事することになりました。
今回の回顧展では、ちょうどその頃に描かれた「斜陽」(作家蔵)を観ることができます。
フォービスムやキュビスムに接近していたという師匠荒尾の影響が如実に感じられる作品ですが、すでに松谷が根っこのところでもっていた造形センスのようなものが現れているようにもみえます。
松谷武判は、元永定正(1922-2011)、白髪一雄(1925-2006)といった具体美術協会の初期メンバーより一つ若い世代に属していました。
「具体」に入会する際、松谷を導いてくれた人物が15歳ほど年長の元永定正です。
しかし、このGUTAIを代表する才人の後押しを受けても、すんなりと入会できたわけではありませんでした。
「具体」の実質的主宰者、吉原治良(1905-1972)が大きくその前に立ちはだかっていたのです。
吉原治良は作品を持ち込んでくる松谷に対して何度も「こんなものはだめ」と拒絶しました。
「誰もやったことがないもの」にこだわっていた吉原は「どこが悪いのか」という指摘を全くしてくれない人だったと過去のインタビューで松谷は回想しています。
とにかく吉原が気に入らなければそれでおしまいという過酷な「関門」です。
1963年、木工用ボンドが作り出した「膜」を取り込んだ作品によってようやく吉原治良に認められた松谷は具体のメンバーとして独創的な作品を次々と発表していくことになります。
この頃の松谷を代表するボンド膜作品ほど様々なメタファーを喚起させるアートはないのではないでしょうか。
切れ目が入った半透明の膜は、すぐさま「眼」を連想させます。
しかし、みているうちにそのイメージが次々と変容していくのです。
眼は口、あるいは唇に。
唇は生殖器官に。
生殖器官は再び眼に戻ったかと思えば、何かを語り出しているようにも見えてきます。
植物も細胞単位でみるとまるで会話をしているような信号を発しているという話を聞いたことがあります。
松谷のボンド膜はそうした植物細胞の発話を連想させるようにも感じられてきます。
青年期、病床で凝視した「木目」のイメージがここで蘇っているのかもしれません。
生命の誕生を象徴しているのか、あるいはその逆である死と腐敗をイメージしているのか、観るたびに印象が宙返りする作品たち。
不気味さと奇妙な懐かしさが同居している松谷武判独特の芸術です。
この造形は記憶の中にも浸透してくるのでしょう。
例えば、蚊に刺された後にできるプックリとした皮膚の凸面を爪で押さえた時にできる奇妙な痕跡。
松谷のボンド膜が痒みの傷跡と脳内で混じりあってきます。
この人の作品には視覚と触覚を混淆させるマジカルな魅力があるようにも思えます。
「具体」の動向がミシェル・タピエの影響によって次第に「アンフォルメル絵画」に主軸を移してしまい初期の先鋭新奇性を失っていく中、松谷武判は1966年、奨学金を得たことを契機にフランスへと活動拠点を移します。
このことが彼をその後も独自の立ち位置をもつアーティストとして長く存続させることになったのかもしれません。
抽象版画や「もの派」的な作品などを経つつ、近作では「形」と「色」の織りなす洗練された造形世界を創造しているようです。
全ての作品について写真撮影が解禁されていました。
なお、図録については残念ながら制作準備中で、予約を受け付けている状況です。
都内でこれほどの規模で回顧される松谷武判展は今後なかなか実現されにくいのではないかと思います。
作品タイトルも含めノイジーなキャプションが全て排除された展示も見事です。
東京オペラシティ文化財団の素晴らしい企画力に感激した展覧会となりました。