
富岡鉄斎(1836-1924)の筆による傑作「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」が現在、京都国立博物館に来ています(展示期間8月11日~9月6日)。
特集展示「辰馬考古資料館の名品 ー 鉄斎との交友、考古学に寄せるまなざしー」の中での展示です。
特集展示 辰馬考古資料館の名品―鉄斎との交友、考古学に寄せるまなざし― - 京都国立博物館
六曲一双のこの巨大な屏風絵は、西宮・香櫨園にある辰馬考古資料館のコレクションを代表する名品の一つです。
辰馬考古資料館は2023年末から建て替え工事のために休館していて、開館50周年となる2028年春の再開を予定しています。
今回の京博による大規模特集展示はこのクローズ期間を利用した出開帳的企画と思われます。
「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」の鑑賞は2024年の春に京都国立近代美術館で開催された「没後100年 富岡鉄斎」展以来、約2年ぶりとなりました。
何度観ても、そのスケールの大きさと大胆にして複雑な構図、濃密な情報量、そして独特の爽やかな色使いに魅了されてしまいます。
京博の今回の企画は非常に充実した内容ですけれども、やや地味ではあるためか、混雑が全くみられません。
静かな環境の中、じっくりこの屏風をあらためて玩味することができました。
各々、縦が約170、横が375センチもあります。
写真などでは当然にかなり縮小されていますから、一見、非常に密度の高い南画に感じられると思います。
しかし実物ではむしろその爽快さが際立つのです。
鉄斎の筆は素早く、迷いが全く感じられません。
深山幽谷の風がこちらに吹いてくるような気配すら感じられます。
小さく描かれた人物たちは省筆の技が冴え渡り、わずかな筆数でその微妙な人格表現が描き分けられています。
全く見飽きることがない大変な名画だと思います。
以下、展示室内のキャプション解説文や京近美での没後100年展図録、東京国立近代美術館で開催された「重要文化財の秘密」展図録等を参照しながら、この名画についての雑文を記しておこうと思います。
「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」は、富岡鉄斎が辰馬悦叟(たつうま えっそう 1835-1920)のために描いたものです。
悦叟は銘酒「白鷹」で知られる醸造家の初代であり、鉄斎との交友は1907(明治40)年頃から始まったそうです。
(なお、辰馬考古資料館の主たるコレクションである銅鐸や考古資料は、同館の創設者である三代辰馬悦蔵(1892-1980)によるものです)
鉄斎と悦叟は1歳違いの同年代ですけれども、意外なことにその付き合いは二人とも70歳を超えてからだったことになります。
1914(大正3)年5月、富岡鉄斎は辰馬家に招かれて滞在し、歓待を受けます。
「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」はその返礼として約2週間の滞在期間中に描きあげられたものです。
左隻に「七十九歳」とありますがこれは数え歳で、鉄斎77歳のときの作品です。
大量の絵具は鉄斎の息子富岡謙蔵(1873-1918)に西宮まで運ばせたそうです。
こんな短期間で描かれたとはとても思えない、非常に緻密な描画を伴った大作です。
鉄斎の悦叟に対する強い感謝の念が観取できます。
なお、とても長命だった鉄斎に対し、息子の謙蔵は44歳の若さで亡くなってしまいました。
鉄斎は謙蔵亡き後の悲しみを辰馬悦叟に宛てた書簡の中で率直に綴っています(2024年の京近美展でその書簡が展示されていました)。
パトロンと芸術家という関係を超えた両者の親密さが伺えます。

右隻の「阿倍仲麻呂明州望月図」は、長く留め置かれていた唐からようやく帰朝することを許された阿倍仲麻呂(698-770)が、船出を前にした宴で和歌を詠んでいる場面が描かれています。
画面の左端に、画面全体からみるととても小さい図像ですが、月を指差す仲麻呂の姿が確認できます。
鉄斎は空に浮かぶ月が海上に映っている様子まで細かく表現しています。
ただ、その海の上の月は波で歪んでいます。
結局、仲麻呂が乗った船は難破し日本への帰国は叶わなかったわけで、歪んだ月はそのことを暗示しているのかもしれません。
賛には仲麻呂がこのときに詠んだという、百人一首にもとられている非常に有名な和歌が以下のように万葉仮名で記されています。
「天乃原布利佐計看禮波春日奈留三笠乃山尓出之月加毛」(天の原ふりさけ看れば春日なる三笠の山に出でし月かも)。
歴史上の超有名人である阿部仲麻呂に比べて左隻の主人公である円通大師はややマイナーな存在かもしれません。
俗名を大江定基(962?-1034)といい、出家後は寂照と名乗った平安時代中期の僧です。
1005(長保5)年、大陸に渡り北宋の第3代皇帝真宗から円通大師の号を与えられています。
真宗の宰相にもなった政治家、丁請から引き留められ、寂照は蘇州の呉門寺にとどまり日本に帰ることはありませんでした。
その出家にまつわる奇怪なエピソードが「今昔物語」や「宇治拾遺物語」にとられている人でもあります。
こちらの賛には藤原道長(966-1028)が円通大師寂照に書き送った文章が引用されています。
和漢の古典に通じていた鉄斎の博学ぶりが伝わってきます。
道長は寂照に対して日本に帰るようにと切々と訴えていて、社交辞令を超えた真心が伝わってくるような感動的な手紙です。
しかし画中の円通大師はそんなことには頓着せずに深山の庵で静かに座しているようです。
感傷的な道長のメッセージと自足している円通大師の対比が面白い作品です。

この「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」は1969(昭和44)年、国の重要文化財に指定されています。
意外なことに、明治以降の近代京都画壇で最初に重文指定された作品がこの大屏風絵でした。
今ではすっかりこちらの方が有名になってしまった竹内栖鳳の「斑猫」(山種美術館蔵)が重文に指定されるのはその翌年、1970(昭和45)年のことです。
さて、今回の特集展示では辰馬家と鉄斎との間の面白いエピソードも確認することができます。
「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」の左隻、その左上の賛の横には鉄斎自身の印の下に「山碧水明」と彫られた印が押捺されています。
これは頼山陽(1781-1832)が自らが篆刻した印で、辰馬家に伝わっていたものです。
富岡鉄斎は頼山陽を非常にリスペクトしていた文人です。
鉄斎は一時、上京区三山木に今も残る頼山陽晩年の書斎「山紫水明處」に住んでいたこともあり、息子の謙蔵はそこで生まれています。
自作の大屏風に頼山陽篆刻の印を押すということは相当に鉄斎にとって晴れがましいことだったと思われます。
頼山陽「山碧水明」印への憧憬を鉄斎はこの後も持ち続けたようです。
盟友辰馬悦叟が1920(大正9)年に亡くなった際、鉄斎は彼の墓碑を製作したのですが、なんとその対価として辰馬家に対してこの「山碧水明」印を所望します。
印を家宝としていた辰馬家は困り果てることになりました。
しかし他ならぬ鉄斎からの頼みを断ることもできません。
そこで辰馬家と富岡家は密かに話し合い、「鉄斎が存命中の間」という前提条件付きで印を鉄斎に譲渡(正確には貸与でしょうか)します。
鉄斎はそんな真相は知らないまま、頼山陽の印を所蔵し続けたそうです。
鉄斎の死後、約束通り「山碧水明」の印は辰馬家に戻され、現在は辰馬考古資料館が所蔵しています。
今回の展示ではその印自体と印が辰馬家に伝わった不思議な伝承などが記された副巻が展示されています。
非常に興味深い展示でした。
もちろん、辰馬考古資料館の名品は富岡鉄斎作品だけではありません。
むしろ平成知新館3F展示室を全て使って披露されている貴重な銅鐸や考古資料の方が主役ともいえます。
特に渋い名品が揃っている銅鐸コレクションは圧巻ですが、今回は岩手県一関市大原から出土したという「土面」に最も惹かれました。
遮光器土偶のような神秘的スタイルと幼児の顔を思わせる柔らかいリアルな表情が渾然一体となっています。
小さい作品ですけれども、時間を忘れて見入ってしまいました。

並行して開催されている特集展示「埋納」とは違い、「辰馬考古資料館の名品」特集については個別の図録が残念ながら制作されてはいません。
前述した通り混雑は全く見られませんでした(平日午前中)。
なお、京博内展示室の写真撮影は全面的に禁止されています。


