潮田登久子の「冷蔵庫」とジェームズ・モリソンの「寝室」

 

潮田登久子
冷蔵庫+マイハズバンド

京都市京セラ美術館本館南回廊2階

www.kyotographie.jp

 

ジェームス・モリソン
子どもたちの眠る場所

■京都芸術センター
■2024年4月13日〜5月12日(KYOTOGRAPHIE 2024)

www.kyotographie.jp

 

冷蔵庫も寝室も生活に密着した極めてありふれた存在ですが、一般的にいって他人にその内部を見せることがない空間でもあります。
さらにそれを写真に撮られ公開されるということを想定して生活している人などほとんどいないといえるでしょう。
ゆえに、この二つの空間はその人の生活あるいはその人そのものの気配が、脚色されることなく凝集して現れる場所になるともいえそうです。

潮田登久子(1940-)とジェームズ・モリソン(James Mollison 1973-)は出身も経歴も全く異なる写真家であり、KYOTOGRAPHIE 2024で開催されている二人の展覧会に直接的な関係はありません。

しかし両者とも極めてパーソナルな空間を切り取ることでその空間自体が語りだす人物の存在を気配のようなものまで含めて鮮やかに写し出してしまうという手法において共通点がみられます。

 

 

潮田登久子の「冷蔵庫/ICE BOX」は彼女を代表する写真シリーズです。

今回の企画では2022年に発表された写真集「マイハズバンド」からの作品も併せて展示されています。
「マイハズバンド」は2019年に40年間住んだという豪徳寺の洋館「旧尾崎テオドラ邸」2階の部屋を潮田が整理していたときに発見された未公開フィルムを写真集として刊行した作品。
夫の島尾伸三や幼い頃の娘しまおまほの姿も写されています。
この「マイハズバンド」を紹介した文章の中で潮田は、「島尾が何処からか運んできた白熊のように大きなスウェーデン製冷蔵庫」を「思いがけないこの生活の伴侶」として「眺め、開けたり閉めたりして撮影することにしました」と述懐しています。
そこから彼女のさまざまな冷蔵庫との付き合いが始まったのでしょう。

潮田にとって「生活の伴侶」となった冷蔵庫。
使う人によってそれは「伴侶」であると同時にその人の「生き方」そのものが映し出された鏡のような存在でもあるようです。

一組の不思議な写真に出会いました。
「冷蔵庫」シリーズのパターン通り、左に閉じられた冷蔵庫、右に開けられた状態の冷蔵庫が写されています。
しかしこの写真の冷蔵庫の中は「空っぽ」なのです。
開けられた冷蔵庫は庫内灯が光っていますから電源はONになっているのでしょう。
庫内はまるで買ってきたばかりのようにほとんど汚れがみられません。
使用した形跡が感じられないのです。
冷蔵庫以外に目を転じると狭苦しい部屋の中に所狭しと色々なものが置かれています。
閉じられている方の写真にみられる冷蔵庫の前には大きな椅子が置かれその上に衣類などの雑多なものが積み重ねられています。
どうやら持ち主は冷蔵庫を開けるつもりすらないように感じられます。
干されている洗濯物から推測すると男性が使用している室内でしょうか。

潮田登久子「冷蔵庫/ICE BOX」より空の冷蔵庫とその部屋

 

自炊をしない人であっても飲み物くらいは入れるであろうに、その気配すら庫内からは感じられません。
空の冷蔵庫同様に部屋の中まで空っぽなのであれば引越ししてきたばかりの人、あるいはミニマリストの部屋として解釈できます。
ところが冷蔵庫内とは裏腹に部屋の中は体臭まで感じられるくらい生活感満点なのです。

冷蔵庫を使う暇もないほど忙しい人なのか、あるいは冷蔵庫に入れるものすら買えない人なのか、それとも冷蔵庫の存在自体を忘れてしまった人なのか。
潮田登久子がなぜこの「空の冷蔵庫」を写したのかということも含め、見ているうちにどんどんと妄想が膨らんでいきます。
モノクロの何の演出もない即物的な写真なのに持ち主の摩訶不思議に魅力的な人物像が浮かんでくる、非常に「幻想的」な写真でもあるのです。

島尾伸三が持ち込んだ冷蔵庫を「伴侶」とまで呼んだ潮田登久子が写した「空の冷蔵庫」写真からは、全く違う生活世界が開かれたことを新鮮に驚いているような写真家の気配すら感じられます。

 


ぐちゃぐちゃに食品が詰め込まれた冷蔵庫、全てがタッパーなどに入れられ病的なくらい綺麗に整えられている冷蔵庫、さまざまなキャラクターのシールなどでデコレーションされた冷蔵庫。
家族や個人という生活単位の違い、年齢の違い、経済条件の違い、そうしたわかりやすい要素を超えた「人そのものの気配」がいずれの写真からも濃厚に感じられます。
一組一組の写真から短編小説が生まれそうな面白さも「冷蔵庫/ICE BOX」の魅力でしょうか。
ミニマルなリズムを取り込みつつ写真群を展示構成した小高未帆によるセノグラフィーも秀逸だと思います。

(なお潮田のコーナーの奥ではこの企画に彼女を招いた川内倫子のしみじみ美しい家族の写真を楽しむことができます。)

 

 

 

他方、英国人写真家ジェームズ・モリソンが写した子供たちの「寝室」は潮田登久子のようにその持ち主を秘匿していません。

世界中に暮らす子どもたちが毎晩寝ているベッドルームを写しながらその持ち主である彼ら彼女らのポートレートと紹介文をしっかり並列展示しています。

"Where Children Sleep"と題されたこのシリーズは彼を代表するプロジェクトとして現在進行形で継続しているそうです。

 

www.jamesmollison.com

 

南北アメリカ大陸、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、オセアニアと世界中の「子供部屋」が写されています。
モリソンという写真家の行動半径の広さにまず驚きます。

誰でも経験があると思いますけれど、自分専用の部屋、あるいはコーナーが住まいの中で与えられた子供はすぐにその場所を「城」あるいは「巣」のように変えてしまいます。
おびただしいスパイダーマンたちで埋め尽くされた男子の部屋に典型的にみられるように全部好きなもので埋め尽くそうとします。

 


その傾向は男女に差がないばかりか世界共通らしく実にさまざまなにわがままな空間が創出されています。
しかし当然に「好きなもの」が集められない環境にいる子供たちもいます。
それどころか、部屋の中にベッドしかない、まさに正真正銘の「ベッドルーム」で暮らしている子供も写されています。

わがままが許される子供時代の部屋だからこそ冷厳に彼ら彼女らを取り巻く環境そのものが表象される空間、それが「子供たちの眠る場所」なのでしょう。

とても面白いのは、部屋の様子に関わらず、モリソンによって写された子供たちがほとんど一様に自信に満ちた表情をしていることです。
子供らしく可愛く微笑んでいる人物もいますが、たいていはまるで「城主」のように胸を張り、ベッドルームを自慢しているかのようにカメラマンを見返しています。
子供を被写体とする場合、少し間違えると耐え難く通俗的な写真になってしまったりしますがモリソンはそうした落とし穴を丁寧に避けて通っているようです。

ここに写されたポートレートの子供たちはモリソンによってある物語の主人公のように堂々とあるいは可憐に振る舞うように求められているのかもしれません。
しかしそれゆえに寝室が醸し出す「真実」が一層、観る者に突き刺さってくるような感覚を得ます。

セノグラフィーを担当した小西啓睦は旧明倫小学校講堂の空間を活かしつつ「部屋」の有り様を巧みにリアルさを重視して再現しています。
全く違う環境に生きる子供たちの対比や、逆に本当は似た者同士のような性格とみられるのに趣味が全く異なる子供たちの部屋を並置することで現れるその世界の驚くべき違いなど、歩き回るほどにスリリングな展示構成でした。

 

 

 

 

潮田登久子が「隠した」冷蔵庫の持ち主の存在と、ジェームズ・モリソンが「明示した」寝室の持ち主である子供たち。

共に極めて「生活」と密接に結びついているありふれた題材なのに、どちらからも不思議な詩情に満ちた魅力が感じられました。

なお京都市美術館、京都芸術センター、いずれの会場も写真撮影に制限はありませんでした。