彼女たちの舞台|ジャック・リヴェット

 

マーメイドフィルムとコピアポア・フィルムの配給でジャック・リヴェット(Jacques Rivette 1928-2016)監督による3作品のデジタルリマスター版が各地のミニシアターで上映されています。

「彼女たちの舞台」(La bande des quatre 1988)を観てみました。
かなり時を経ての再鑑賞です。

jacquesrivette2024.jp

 

監督リヴェットの名前を、妙な話題性を原因としつつも、結果的にこの国で一気に広めてしまった傑作「美しき諍い女」(La belle noiseuse 1991)の一作前にあたる映画です。
「彼女たちの舞台」の中にも「美しき諍い女」という絵の名前が何度か登場しますから、リヴェットがこの題材にかなり執着していたことがわかります。
ただ、内容的に2作品の間に共通したところは特にありません。

「四人組」という原題が示す通り、演劇学校に通う4人の若い女性たちを中心に物語が進行します。
難解ではありませんが、演劇学校の様子と活動家らしい男の存在、そしてその男が隠したある物を追いかける人物が不穏かつ軽妙に絡み合い、最終的には狐につままれたようなエンディングを迎えるという、いかにもリヴェットらしい映画です。
162分とそれなりの尺がありますけれどこの監督の作品の中では標準的な長さでしょう。
演劇学校の生徒たちが繰り広げる瑞々しい会話劇の波に乗ることができれば冗長に感じることはないと思われます。

場所が非常に限定されている映画です。
演劇学校である古めかしい劇場と、4人組が共同生活をおくるパリ郊外の一軒家。
主な場面はほとんどこの二箇所の中に限られています。
場面が切り替わるときに印象的な列車の走行シーンが都度挿入されます。
パリ中心部に近いところにあるとみられる学校と共同生活館がある郊外を時間的かつ位置的に関係づけるために列車シーンが使われているようにも感じられますが、列車が進行する方向は常に右から左に向けてのようでもあり、あまり「往復」している感じは受けません。
結局何のためにいちいち列車が登場するのか明確な答えはなく、宙吊りにされたままです。
学校と一軒家という密室的世界に不気味な奥行きと時間の流れを意識させる「幕間」的な効果を狙ったということなのかもしれません。

今回のリバイバル上映を観てあらためて強く感じたことがありました。
それは「彼女たちの舞台」に色濃く投影されているジャック・リヴェット自身の存在です。
映画に監督の存在が投影されることは珍しいことではありませんが、この作品ではそういう一般的なレベルを超えて「リヴェット自身」が映画の中の「二枚の鏡」に投影されているように感じます。

リヴェットは演劇という分野にひどくこだわっていた人でした。
例えば「ノロワ」(Noroît  1976)ではトマス・ミドルトンの戯曲世界の再現を試みていましたし、今回のリヴェット祭でも取り上げられている「地に堕ちた愛」(L'amour par terre 1983)では、劇場ではなく居宅で繰り広げられる演劇をテーマとしていました。

「彼女たちの舞台」もまさに「演劇」そのものを主題の一つとしています。
生徒たちが主に学んでいる演劇はピエール・ド・マリヴォー(Pierre de Marivaux 1688-1763)の戯曲『二重の不実』(La Double Inconstance)。
古典好きなリヴェットらしい素材が選択されています。

 


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この映画においてビュル・オジエ(Bulle Ogier 1939-)が演じている演劇学校の教師はおそらくリヴェット自身の分身ではないかと考えています。
オジエが生徒たちに施していく演技指導は、本来、リヴェット自身が自分でやりたかったことであり、映画の中でどんどん変化していく「彼女たち」の演技、その生々しさや美しさこそリヴェットが観客に提示したかったことなのでしょう。
「演出の現場」そのものが生じさせる快楽。
それを存分に味わっているリヴェット自身が投影されている、「一枚目の鏡」がビュル・オジエなのです。
この役は当初、ジャンヌ・モローが演じる予定だったそうです。
撮影直前にモローが姿をくらませてしまったためビュル・オジエに変更されたのですが、リヴェット映画の常連でもあるオジエが演じたことでより一層、監督の分身感が出ているようにも感じます。
結果的にリヴェット=オジエという見事なキャラクターが創造されています。

ところでこの演劇学校に男性生徒は一人もいません。
映画の中では「以前は男性もいた」ことが語られているので初めからオジエ先生が男嫌いだったという設定ではないようです。
しかしリヴェット作品を見ていると感じることなのですが、この監督は基本的に男性俳優、特に若手俳優への演技指導が苦手、というか面倒臭くてそれ自体したくないといった傾向が見られるように思えます。
ノロワ」で登場する海賊の手下たちは一様にセリフを棒読みしているみたいに感じます。
「メリー・ゴー・ラウンド」(Merry-Go-Round  1981)に登場するジョー・ダレッサンドロもほとんど演技らしい演技をしていません。
若い男に演技指導すること自体にリヴェットはうんざりなのでしょう。
「彼女たちの舞台」に全くといって良いほど若手男性俳優が登場しないのは、リヴェットが仕組んだ「演出の現場」に相応しくない、あるいは「使えない」と彼が判断したからなのではないでしょうか。

他方で、欲張りな監督リヴェットは演技指導した女の子たちとも存分に戯れたいと考えています。
そこで登場する人物が、監督自身を映す「二枚目の鏡」であるブノワ・レジャン(Benoît Régent 1953-1994)です。
レジャン演じる謎の男は四人それぞれに別名で接近し、あるときは手練手管を尽くし、あるときは半ば強引にランデヴーを仕掛け続けます。
こうした女の子たちとの「駆け引き」、そして「追いかけっこ」こそリヴェット自身がたまらなく好んでいたことであり、レジャンはリヴェットに成り代わってそれを存分に楽しんでいるように見えてくるのです。
ブノワ・レジャンはリヴェットがわざわざ演技指導しなくても全く問題ない俳優です。
「彼女たちの舞台」において登場する男性役としてはほとんど一人といっても良いこの俳優がリヴェットそのものの分身と考えれば、その謎めきつつ都合のよい存在も了解できるのではないでしょうか。

演技指導者としての分身であるビュル・オジエと、「追いかけっこ」をする分身としてのブノワ・レジャン。
二枚の鏡がこの映画の中でリヴェット自身を映し出しています。

戯曲を題材にしてなんとか舞台の空気をそのまま映画にしようと目論んでいたリヴェットですが、「ノロワ」や「地に堕ちた愛」ではそれが空回りしているように思えてなりません。
この2作にはジェラルディン・チャップリンベルナデット・ラフォンジェーン・バーキンといった存在感抜群の俳優たちが出演しています。
だからこそ「演出の現場」がもつ快楽が現れにくかったといえるかもしれません。
リヴェットが示したかった軽やかに瑞々しいMise-en-scèneの美が大物俳優たちがもつ重量感によって相殺されているように感じられます。
「彼女たちの舞台」で登場する俳優たちは主役の4人も含めていずれもリヴェット=オジエの演出、演技指導にとてもヴィヴィッドに反応しているようにみえます。
一連の「演劇もの」の中でこの映画が最も成功している秘密がここにあるように思えます。

2017年にデジタルリマスターされた映像の質感は非常に滑らかで、その効果がはっきり現れています。
カロリーヌ・シャンプティエ(Caroline Champetier 1954-)による自然光だけを活かした撮影術の美しさを十分に感じることができると思います。

 

 

白髪一雄生誕100年特別展示|兵庫県立美術館

 

白髪一雄生誕百年特別展示
ーコレクションからザ・ベリー・ベスト・オブ・白髪一雄ー

■2024年4月25日〜7月28日
兵庫県立美術館

 

兵庫県美は白髪一雄(1924-2008)の作品を87点所蔵しているそうです。
彼が今年生誕100年(お誕生日は8月12日)を迎えたことを記念しコレクションの中から同館自慢の作品をセレクトした特別展示が行われています(常設展エリア)。

「代表作を厳選」したという美術館側の意気込みが伝わるかのような見応え満点の構成です。
1F常設展示室の半分近い空間を使って大型作品を中心に強烈な白髪ワールドが展開されていました。

www.artm.pref.hyogo.jp

 

足で絵を描く、「アクション・ペインティング」の人です。
しかし私は映像などてよく見ることができる、白髪一雄がロープのようなものにつかまって足を絵の具の上で滑らせている姿があまり好きではありません。

本人がどういうつもりだったのかはともかく、精神的に異様な情熱に突き動かされているように見えることもあれば、なんとなくバカっぽいパフォーマンスの一種にも見えてきてしまうからなのでしょう。
1971年に比叡山で得度し天台僧になってからは、まるで修行者が行う荒業の一つのようにみえることもありましたが、他方でどこか生臭いイメージを得てもいました。
いずれにせよ、彼が「手段」として選んだはずの技法自体が「目的」化されているように、一見、感じられてしまうその姿に私はどうも馴染めないのです。

白髪の制作風景は海外からみると独特のミステリアスな魅力にもつながるのでしょう。
このアーティストは今や「白髪一雄」というより"Kazuo Shiraga"としての認知度が高いくらい国外で人気を得ているのではないでしょうか。
彼の存在がGUTAI全体の世界的価値をも高めている面があるといってもあながち間違いではないように思えます。

 


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ところが、白髪が描いた作品の前に実際に立つと、彼の「足で描く」という行為の残像がたちどころに消えてしまうのです。
目の前にぶちまけられた色彩の渦と絵具そのものが凶暴に主張する質感の激しさに圧倒されるしかありません。
むろん、「足で描いた」痕跡自体は簡単にみつけられます。
ただ、作品世界の中に身を投じるとそんなことは全くどうでもよい事象として背景のさらに裏へと退場します。
アクション・ペインティングとは白髪にとって正真正銘の「手段」に過ぎなかったことに作品自体を鑑賞すると気がつくのです。

白髪一雄「天暗星青面獣」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄は「資質」という言葉を独特に用いていたことで知られています。

彼は「資質」のことを、後天的に得た能力や思想ではなく「もって生まれた肉体を土台として、生存する中に獲得された肉体と精神の統合されたもの」と定義し、作品にはその「資質」が表現されなくてはならないと考えていたそうです(大阪中之島美術館・国立国際美術館「GUTAI 分化と統合」展図録P.27)。
難しい表現のように感じますが、簡単にいってしまえば「生まれ育った現在」をそのまま作品に表現するということになるでしょうか。
もっと卑近で大袈裟な言葉を使うならとにかくありのままで「全身全霊」を表現したものが「作品」ということなのでしょう。
白髪一雄が行ったアート制作が文字通りそういうものだったとすれば、自ずから「絵筆」はその必要性を失うともいえます。
「もって生まれた肉体を土台」とする以上、肉体と直結しない絵筆という道具は彼にとって夾雑物ということになります。

白髪一雄「黄帝」(部分)(兵庫県立美術館蔵)

 

他方で、白髪一雄が出鱈目にあるがままの「資質」をぶちまけていたというわけではないことも作品から如実に伝わってきます。
足で描くというその手法から、精密な色彩設計図を再現したものではないことは自明ですけれども、白髪作品の色彩関係はまるであらかじめ考え抜かれていたかのように絶妙な配置をとっているように感じられてこないでしょうか。
ぐちゃぐちゃに混ぜられているにも関わらず、各々の絵の具たちは本来の色を失わないばかりか他の色と交差しつつ響きあい、不用意に「混濁」することがないのです。
子供の頃、あらゆる色の絵の具を混ぜるという悪戯めいた実験をした人は少なくないと思います。
全ての色を混ぜてしまうと「灰色」が出来上がってしまいます。
白髪は色彩の「混沌」を激しく表現しているときでも灰色に堕してしまう安易な「混濁」を許していません。
そこにはこの人しかもちえていない天才的な色彩に関するセンスと「技術」があるように思えます。

白髪一雄「あびらうんけん」(兵庫県立美術館蔵)

 

「あびらうんけん」と題された作品が展示されています。
1975年に制作された182×259センチの油彩画です。
「あびらうんけん」とは大日如来の五字真言ですから、この絵は真言密教的な世界と関係しているとも解釈できそうです。
中央に大きく描かれた円が曼荼羅的な世界を表現しているとすればその中心に大日如来をイメージしているとしてもおかしくはありません。
ただそれならばタイトルを端的に「胎蔵大日如来」とでもした方が相応しいようにも思えます。
白髪はおそらく「あびらうんけん」という「おまじない」的にも親しまれているこのマントラの響きを大事にしたかったのかもしれません。
抽象の世界に孤立するのではなく、俗世に開かれたアートを意識していたこの人の精神を感じることができる一枚です。

 

ピエール・スーラージュ「絵画 162X139」(部分)(大原美術館蔵)

 

偶然かもしれませんが先日同じ兵庫県美で鑑賞した「スーラージュと森田子龍」展(2024年3月16日〜5月19日)との共通点も感じられました。
ピエール・スーラージュ(Pierre Soulages 1919-2022)はとりわけ「黒」がもつ質感にこだわったアーティストです。
彼は分厚く刷毛の痕跡を残した黒絵具が光を反射したとき画布上に現れる質感の美を重要視していました。
白髪一雄が「懐素上人」(1983)で試みている「白」絵具一色による表現は、その激しさにおいてスーラージュとは真逆とも感じられますが、スーラージュが「黒」で表現しようとした質感美のネガあるいはポジといえるかもしれません。

 

白髪一雄「懐素上人」(部分)(兵庫県立美術館蔵)

 

なお兵庫県美の常設展コーナーは一部の例外を除きほぼ写真撮影OKです。

GUTAIの巨人白髪一雄の生誕100年となる今年は彼の出身地である尼崎をはじめ、さまざまに回顧される機会が増えそうです。
特に「白髪一雄記念室」をもつ尼崎市総合文化センターは「生誕100年記念事業」と銘打ってかなり力こぶを入れた企画を予定しているようです。
機会がつくれたら鑑賞してみたいと思います。

www.archaic.or.jp

 

白髪一雄「作品I」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「天異星赤髪鬼」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「地暴星喪門神」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「天間星入雲龍」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「地傑星醜郡馬」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「作品Ⅱ」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「色絵」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「懐素上人」(兵庫県立美術館蔵)

 

白髪一雄「黄帝」(兵庫県立美術館蔵)