信田洋「蒸発用鉄瓶」

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信田洋(のぶた よう)は1902(明治35)年、日本橋に生まれた彫金家。

1990(平成2)年に亡くなっています。

「蒸発用鉄瓶」は1934(昭和9)年の帝展で特選となったこの工芸家、代表作の一つです。

1962(昭和37)年、翌年の京都国立近代美術館開館にあわせて東京から移管された作品。

現在、京近美のコレクション展(〜2021年3月7日)で展示されています。

 

鉄瓶の輪郭はすっきりとしたモダンな形状で整えられています。

しかしその文様にはどこか仏教的なモチーフを連想させるような曲線が表されていて、表情の豊かさと気品が同居する名品。


信田は北原千鹿が主導した工人社に山脇洋二らと共に加わり、昭和の彫金界を牽引した重鎮の一人です。

先日まで開催されていた金沢の国立工芸館開館記念展(「工の芸術」展)では、ちょうどその工人社で活躍した北原千鹿の「羊置物」と山脇洋二の「金彩鳥置物」が展示されていました。

昭和モダンの流れをつくった工芸家たちの代表作は伝統と進取が絶妙に混合されています。

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信田洋 蒸発用鉄瓶(京都国立近代美術館)

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北原千鹿 羊置物 山脇洋二 金彩鳥置物 (国立工芸館)

高台寺茶室群と分離派建築会

 

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現在、京都国立近代美術館で開催されている「分離派建築会100年」展(〜2021年3月7日)。

www.momak.go.jp


堀口捨己による「紫烟荘」が回顧されています。

1926(大正15)年、個人宅として建設されました。

わずか2年後に焼失してしまいますが、その独特の造形が写真に記録されていて、今回の展覧会でも分離派建築会の代表的作品として取り上げられています。

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紫烟荘

 

堀口はヨーロッパ留学から帰国してすぐ、1924(大正14)年に、見聞してきたオランダ建築に関する本を著しています。

その2年後、埼玉・蕨に建てられた紫烟荘は、オランダにおける田園住居建築の造形が反映されているといわれます。

直方体を主体としたモダニズム風の居住部分に、唐突ともいえるこんもりとした茅葺の屋根が組み合わされた、今見てもインパクト十分な異形の建築。

現存していないので写真からその姿を想像するしかないのですが、この建物からイメージされるのはオランダの田園住居というよりむしろ日本の数寄屋茶室。

 

中でも私の中では、高台寺に残る茶室がすぐ結びついてきます。

 

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高台寺 傘亭

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高台寺 時雨亭

高台寺境内の最奥、霊屋(おたまや)前から東に伸びる急な石段を上がると、二つの奇妙な建物が姿をみせます。

 

「傘亭」と「時雨亭」。

 

屋根付きの廊下で接続された一対の茶室です。

利休好みとされますが、その根拠が明確に示されているわけではなく、建築された時期も桃山から江戸初期とはっきりしません。

いずれも国の重要文化財です。

中でも傘亭です。

茅葺屋根とシンプルな茶室が醸す雰囲気は紫烟荘にそっくりです。

紫烟荘が傘亭や時雨亭を直接的に引用して設計されたわけではないと思われます。

しかしその形状のもつ茅葺数寄屋建築のエキスが、紫烟荘のモチーフに影響しているように感じられるのです。

 

堀口は分離派建築会終息後、昭和40年代初期ではありますが、数寄屋建築を解説した『茶室おこし絵図集』で実際に傘亭と時雨亭を取り上げています。

紫烟荘でとりくんだモチーフをあらためて回顧しているようにも思えます。

 

さて、高台寺にはもう一つ、分離派建築会ゆかりの茶室があります。

入り口から入ってすぐ顔を見せる「遺芳庵」。

こちらは江戸初期の豪商にして文化人、灰屋紹益が建てたとされる茶室。

茅葺の屋根。

その下に丸い窓(「吉野窓」)。

傘亭や時雨亭もユニークですが、こちらはさらにユーモアすら感じさせる小建築です。

この茶室をそっくり引用したのが、分離派建築会にやや遅れて参加した山口文象です。

北鎌倉にある「宝庵」(旧関口邸茶室)には山口が模した遺芳庵そっくりの茶室が残されているそうです。(伊藤美徳氏による「宝庵由来記」より )

 

「分離派建築会100年」展では「丘上の記念塔」(1924 大正13年)など、当然、分離派建築会時代を中心に山口の作品がとりあげられています。

旧関口邸茶室は1934(昭和9)年の作品なので直接この展覧会では触れられていませんが、「丘上の記念塔」にみられる典型的なドイツ表現主義の影響とは別種の趣向をこの建築家がかなり早い時期からもっていたことがわかります。

 

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高台寺 遺芳庵