山元春挙 生誕150年|滋賀県立美術館

 

生誕150年 山元春挙

■2022年4月23日〜6月19日
滋賀県立美術館

 

滋賀県立美術館は、「滋賀県立近代美術館」時代から一貫して、山元春挙を積極的にとりあげてきました。

最初の滋賀県美による春挙展は1985(昭和60)年に開催された、「湖国が生んだ京都画壇の巨匠 山元春挙」。

美術館開館の年である1984年の翌年に、早速、大津出身の巨匠に敬意を払っています。

 

続いての大規模な企画展は2000(平成12)年。

多くの春挙作品が滋賀県美に一括寄贈されたことを受けて開催された「山元春挙」展でした。

 

今回の生誕150年記念展では、2000年展の63点を大きく上回る、100点もの作品を前後期に分けて展開。

昨年の再起動的リニューアル後も、春挙を大切に扱っていく姿勢をこの美術館は明確に示しているといえます。

 

数々の館蔵品に加えて、東京国立近代美術館から「雪松図」、愛媛県美術館からは「春の海」と、全国から作品を集め、大型の代表作がほぼ網羅されています。

(ただ図録中には掲載されている京都国立近代美術館蔵の傑作「春夏秋冬」は滋賀展では展示が見送れられたようです)

 

加えて春挙が図案の筆をとった膳所焼の器や、珍しい洋画の一枚まで出展され、規模としても質としてもかつてない大・山元春挙展になっています。

圧倒的に素晴らしい企画展でした。

 

1985年の春挙展に際して刊行された図録の中で、滋賀県美は春挙について「戦後の評価が必ずしも高くない」として、膳所出身の大画家復権に向け一石を投じています。

確かに、現在でも、竹内栖鳳と共に京都画壇の双璧と称えられた人にしては、前者の評価に比べ知名度的にはやや地味な印象を受けます。

しかし、今回の一堂に会した作品をあらためて鑑賞すると、地味どころか、華麗にして典雅なその絵画世界に圧倒されます。

栖鳳の熟達した写実とは違う、春挙ならではの煌めくリアリズム。

 

栖鳳よりも年下なのに、1933(昭和8)年、61歳で春挙は急逝してしまいます(竹内栖鳳は1942年没)。

円熟期を迎えた頃に亡くなってしまったことや、栖鳳による「アレ 夕立に」のようなアイコン的ともいえるわかりやすい代表作がないことが、実力の高さに比して一般的な知名度が低いことにつながっているのかもしれません。

今回展示されている作品の中にみられる、例えばこれも代表作として名高い連作「塩原の奥」(東京国立美術館蔵・前後期で展示入れ替え)などは、重要文化財級の名品だと思います。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9b/Recesses_of_Shiobara_%28Autumn%29_by_Shunkyo_Yamamoto%2C_4_of_4%2C_1909%2C_color_on_silk_-_National_Museum_of_Modern_Art%2C_Tokyo_-_DSC06643.JPG?uselang=ja

 

「班猫」(山種美術館)、「絵になる最初」(京都市美術館)と2点も重文指定されている栖鳳に対し、技術面を含めた芸術性の高さで十分拮抗する春挙の作品が一点も指定されていない現状には、確かに違和感を覚えます。

 

暗い町家座敷の奥にこもって背を丸め、花鳥風月や美人画を描くことを専らとしていたような人が多い印象を受ける京都画壇ですが、山元春挙はカメラを片手に遠方まで旅し、登山も好んだ行動派でした。

「山上楽園」(京都市美術館蔵 1922・大正11)は信州白馬岳に登ったときに眼にした風景を題材とした作品。

その登山には、昨年大規模に回顧されて話題になった小早川秋聲や、高弟の梥本一洋など、数多くの門人が同行していたそうです。

 

kyotocity-kyocera.museum

 

雄大かつ繊細華麗な美観をもった傑作ですが、どこか山の空気の陽性な爽快さをも感じさせます。

まなじりを決して白馬岳と向かい合うのではなく、弟子たちと語らいながら登山を楽しんだ春挙の心象が反映されているのかもしれません。

壮大な風景画を描くときでも、春挙はほとんど気がつかないレベルで人物や鳥を小さく登場させていて、「山上楽園」にも微細に描き足された人物の図像が確認できます。

対象物の大きさを見る者にわかりやすくする工夫ともみれますが、独特の温かみを風景に添える効果を生んでいるようにも感じます。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Yamamoto_Shunkyo_-_Good_Omen_-_Google_Art_Project.jpg?uselang=ja

 

他方、今回ポスターなどにも採用されている足立美術館蔵の「瑞祥」(1931・昭和6)は写実とは別種の幻想世界が緻密かつ大胆に描き込まれた大作。

森寛斎から受け継いだ巌窟描写の様式美が、透明感をおびた大気の中にくっきり像を結んでいて、あまりにも見どころが多く、近づいて観たり、離れて観たりと、しばらく絵の前をウロウロすることになりました。

 

滋賀県美の「展示室3」は企画展用のスペースとして十分な広さを持ってはいるものの、「雪松図」はじめ、非常に大きな作品が多いので100点を一気に紹介することはできなかったようです。

前後期で若干の入れ替えがあります。

総じてゴールデンウィークを挟みこんだ前期(〜5月22日)の方に代表作系が多く含まれているようです。

GW中に鑑賞しましたが目立った混雑はなく、じっくり作品と向き合うことができました。

なお、展示室1,2で開催されている常設展も非常に充実した内容になっていて、山元春挙が最初に師事した野村文挙による近江の名所図なども展示されています。

 

 

www.shigamuseum.jp

 

 

HOSOO GALLERYの女性写真家特集|KYOTOGRAPHIE

 

10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭 

■2022年4月9日〜5月8日
■HOSOO GALLERY

 

今年も10を超える会場で展開されているKYOTOGRAPHIE。

それぞれにユニークな内容なのですが、中でも姉小路両替町のHOSOOギャラリーで開かれている女性写真家特集は、実質、今回のメインイヴェントとみて良いくらい刺激的で充実した内容になっていると思います。

www.kyotographie.jp

 

現代日本女性写真家」という以外、ここに選ばれた10人に共通要素はありません。

微妙で難しい企画だと思います。

フェミニズム方面からもアンチ・フェミニズムの立場からもその「選定基準のあいまいさ」について批判を受けそうだし、これにLGBTQ的な関数が絡んでくると収拾がつかない事態にもなりかねない危うさがありそうです。

例えば本展と同じ企画内容で、恵比寿の都立写真美術館が開催できるかというと、ちょっと難しいのではないかと思ったりもします。

写された対象というよりも、女性であるという条件からさらに絞り込まなければならない「選定基準」をどうするのか、これが特に官立の器では扱いが難しい問題となってきます。

 

私設のミュージアムでも事情は同じです。

例えば現役の女性モダン・アーティストを特集し話題となった展覧会に、昨年開催された森美術館の「アナザーエナジー」展がありました。

しかし、大胆な企画で有名な森美術館にしても、「女性」というだけではなく、そこに「70歳以上・キャリア50年以上」という別の強力な基準をワンクッション設けることでジェンダーに関わるノイジーな外野からの声を、辛うじて、封じていたように思えます。

 

現代日本女性写真家たちの祝祭」は、この写真祭の共同ファウンダーかつディレクターである仲西祐介とポリーヌ・ベルマールに、ルシール・レイボーズが加わった3名の主観で成立している企画です。

面倒な「選定基準」の問題はあっさり無視し、3人の眼で選んだ10人のアーティストによって正面突破が図られています。

スポンサーとなっているケリングの強い後押しもあったとは思いますが、似非ポリコレ風の雑音を吹き飛ばし、強烈な10名の個性がひしめき合う素晴らしい内容の展示を実現させてしまっていることに驚きました。

 

会場となっているHOSOO GALLERRY内に組まれた10のセノグラフィー(小西啓睦)がまず素晴らしい効果を生んでいます。

2階は「黒」、5階は「白」。

このギャラリーの色調特性と写真家たちの個性を共鳴させ、実際の面積以上に空間的広がり、奥行きが感じられる展示構成になっています。

 

細倉真弓の「NEW SKIN」では、人体や皮膚、性といった要素の解体とそのランダムとも見える再構築がプロジェクターによるモノクロのドットで明滅。
軽い眩暈を覚えるほど苦味走った刺激を感じました。

 

 

地蔵ゆかり「ZAIDO」からは、雪のもつ、音をも吸い込んでしまいそうな質感世界と、それにふんわりと交じりあいながら、それでも、確固として暮らす人たちの尊厳美が静かに響いてきます。

 

 

自らの不妊治療をモチーフにしたという鈴木麻弓の「HOJO」は、スタティックに捉えられた豆や卵子精子が組み合わされることによって、じめじめした凡庸にネガティブな感情をまとうことなく、テーマの重さをずっしりと突きつけてくるようです。

 

 

岩根愛の「A NEW RIVER」は大判の画像にさまざまな技法を駆使しつつ、虚実の境界そのものであるかのように東北の桜を写しとっていて、十分に耽美的なのだけれど、そこにはある種の格調高さも加わっているように感じます。

 

 

黒を基調とした2階エリアの最後に登場する殿村任香の「焦がれ死に」は、焦がれというよりも、何かとてつもなく「こじらせた」女性が、ブレた画像の中から強烈に間主観性を求めてきて、体臭まで匂ってきそうなじっとりとした空気を発散してきます。

 

その殿村の毒気から逃れるように5階に向かうと、「白」の壁、外光が眩しい空間が現れました。

さっそくに、深呼吸、です。

 

𠮷田多麻希の「Negative Ecololgy」に写された動物のモチーフは、技巧を意識させる大判画像にもかかわらず、そこにはどことなく良い意味での素人っぽい眼差しがあって、不思議と優しい空気感をまとっています。

 

 

他方、林典子「sawasawato」は北朝鮮帰還事業に翻弄された女性の姿と「声」そのものを記録した、テーマも対象も極めてハードなもの。

しかし、画像からは単純な苦渋表現よりも、静かな、それでいて底抜けともいっていい彼女たちの「受容」していく気高い姿が迫ってきます。

 

 

稲岡亜里子の「Eagle and Raven」では双子の姉妹をモチーフにしている時点で誰もがダイアン・アーバスとの近似を意識してしまうだろうし、幻想的なその図像は、妖精をとらえたというあの世紀のフェイク写真をもどことなく連想してしまいます。

しかし、そういう鑑賞者側のひねくれた想像をおそらく写真家は全く忖度していなくて、あっけらかんと独自世界を見事に創造しているようです。

 

 

清水はるみ「mutation / creation」は人工的に、あるいは自然の偶然によって生み出された、いわゆる「変異種」をとり続けた作品。

ちょうど西宮で開かれている佐藤健寿の「奇界/世界」展と呼応するような写真なのですが、徹底して対象の異形性を鋭角に取り込む佐藤に対し、清水の作品には、どこか対象への柔らかい眼差しが混じり合っているようにも感じられます。

今回、一番惹かれた作家です。

 

 

白く、よく換気された軽やかな5階の展示空間なのですが、一部屋だけ、2階の殿村任香と相対するように、岡部桃の「ILMATAR」が濃厚にじっとりとしたエロス世界で異彩を放っています。

この部屋には「刺激が強い作品がある」との注意書きも。

実際、注意書きの通りなのですが、こちらでは殿村作品が放っていた強烈な間主観性希求の熱よりも画面の中自体が、じんわり、そしてじとじとと官能の空気をこもらせている感じ。

ここまでくるとお腹がもういっぱい状態です。

 

実は、今年の京都グラフィ、本展でいうところの「現代日本女性写真家」に対応する「現代日本男性写真家」は一人も登場していません。
(除くKG+。なお奈良原一高は2020年に亡くなっています)

今回の充実した内容から空想すると、そのうち、「現代日本男性写真家の祝祭」という企画が意味をもってきそうな世界がやってきてしまう、かもしれません。

 

この会場のみ、事前予約制。

じっくり10の個性と向き合えると思います。