大竹伸朗展と小牧源太郎展

 

大竹伸朗

■2022年11月1日〜2023年2月5日
東京国立近代美術館

 

小牧源太郎 生きとし生けるもの

■2023年1月14日〜3月5日
■市立伊丹ミュージアム

 

大竹伸朗(1955-)と小牧源太郎(1906-1989)。

二人の間に特段のつながりはありません。

前者は現役の人気アーティスト、後者は戦前から戦後にかけてのシュルレアリスム作品で最も知られる物故画家。

作風も技法も全く違います。

たまたま彼ら二人の回顧展を連続して鑑賞しただけです。

 

ただ、作品を創造するという行為において、この二人にはどこか共通点があるように感じてしまってもいるのです。

 

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東近美での大竹伸朗展は、まもなく70歳代に入ろうとするこの人の文字通りの大回顧展で、初期から最新作、油絵からインスタレーションまで膨大な作品が投入されています。

ちょっと息苦しくなるくらいの展示空間。

 

不思議な感覚が生じました。

例えば押入れや物置に長らく放置していた雑誌類やアルバム等を整理するときに感じる、なんとも言えないあの感じ。

面倒臭さと、甘ったるい快感のようなものがぐちゃぐちゃと混じりあって込み上げてくる感覚。

湿気や埃でガビガビになってページをめくることも難しい昔の雑誌を、捨てるつもりでいたのに、物置の中に座り込んでついついまた読み出してしまったときの嬉しい後ろめたさ。

大竹のライフワークである「スクラップブック」シリーズからはもちろんですが、他の作品からも同じような、どっぷりと時間が醸成した、ある種の「官能性」が立ち上ってくるような印象を受けます。

 

 

何をもって、「完成した」としているのかよくわからない作品もあります。

想像を絶するような夥しいマテリアル、というか「ゴミ」が凝集した作品をみていると、大竹伸朗という作家が内奥に秘めているのであろう、底抜けの「つくりだす」ことへの欲求と力がビシバシと容赦無く迫ってきます。

大竹が集めた素材、それ自体がすでに時間の醸成を受けたモノなわけですが、それをさらに一つの作品として生成していく作家の作業自体にも膨大な時間がかけられています。

二重の時間による「発酵」によって生じる美醜を超えた旨味。

大竹伸朗作品には、味噌やチーズなどと共通する魅力があるのかもしれません。

 

 

 

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市立伊丹ミュージアムは、小牧源太郎の主に後期作品をコレクションしていて、本展でもあまり観る機会が少ない70年代以降の大型作品などが展示されています。

と同時に、戦前戦中に描かれたスケッチなどを多数展開しながら、小牧の全時代をまんべんなく紹介しようという意欲的な企画。

驚いたのは、主に1940年代、戦時下、小牧が執拗に描いていた題材です。

 

当局に危険視されていたシュルレアリスム画家たちは、画題を日本的なものに変えるなど、戦時体制の中で苦しい創作活動を余儀なくされていました。

小牧も仏教美術をテーマとする作品にシフトしたことで知られています。

しかし、彼は単に仏像などを表面的にモチーフとして捉えていたわけではないことが今回の展示で明らかにされています。

小牧は、古建築の権威、天沼俊一(1876-1947)が模写していた法隆寺の装飾文様などの資料を自身の手でさらに精密に描き写しているのです。

今回展示されているその文様類の模写からは、小牧がもっていた職人芸的な画力を感得することができます。

自由な幻視風景を描けなくなった画家は、それでも込み上げる創作の欲求を抑えることができなかったのでしょう。

その仕事ぶりは自作への参考として写すというレベルをはるかに超え、徹底したものです。

戦後、画題の制約がなくなったのちも、彼はその手に染み込んだ和様のデザインセンスを駆使して作品を生み出し続け、最晩年に至るまで緻密な画風を維持していました。

小牧の作品には、どこか、延々と湧き上がる創作の欲求に突き動かされて、描かざるをえないような切羽詰まった空気が感じられます。

 

大竹伸朗は、近美で開催されたトークイベントの中で、「とにかく何か作っていないとだめだ」というような趣旨で発言しています。

強烈な制約を受けた戦時下でも南都美術を延々と写しとっていた小牧源太郎も、「何か描いていないとだめだ」という状態だったのではないでしょうか。

精神的にというよりも、生理的に創作の衝動に突き動かされてきた人たち。

 

正直にいうと、大竹伸朗にも小牧源太郎にも、その作風自体に大きく惹かれるところはないのです。

しかし、彼らの作品から放たれる、「作っていないと仕方がない」という、その溢れ出て、こぼれ出てしまうような欲求の奔流には独特の魅力があります。

二つの回顧展を鑑賞し終わって残った雑感でした。

 

偶然ですが現在、東近美では、大竹伸朗展と並行して開催されているコレクション展示の中で、小牧源太郎の「道祖神」(1950)が公開されています(2月5日まで)。

一方、伊丹ではこの作品の下絵が原画の写真とともに展示されています。

東京と兵庫、小牧作品が不思議なシンクロニシティを生成していました。

 

小牧源太郎「道祖神」(東京国立近代美術館で撮影)

 

 

 

大徳寺 三玄院と龍翔寺

大徳寺塔頭、三玄院(さんげんいん)が特別公開されたので見学してみました。
(京都市観光協会主催 2023年1月16日〜3月13日)

「京の冬の旅」企画では初公開とのこと。

なお、受付から奥、庭園や建物は一切撮影NGです。

ja.kyoto.travel

 

大徳寺法堂のすぐ西側に位置し、南側には正受院(非公開)が隣接。

門前は何度も通っていますが、中に入るのは初めてです。

 

表門から入って右側に「昨雲庭」と名付けられた庭園が設けられています。

シンプルに整えられた枯山水

庭自体さほど大きくはないのですが、巨大な法堂を借景として上手に取り込んでいて、実際の広さよりも雄大に見えるような感覚を得ました。

 

最大の見ものは方丈の中に描かれた原在中(1750-1837)による襖絵群です。

この絵師らしく、さまざまな流派のスタイルを駆使して図像を描き分けていて、まるで近世の水墨障壁画見本コーナーみたいになっているところが面白い。

等伯風の猿猴、応挙風の孔雀や滝、狩野派的な花や岩石が、四季を表現しつつ各間にきちんと収まっています。

中でも室中南面に描かれた虎は水墨のデリケートな濃淡がよく残っていて、在中のテクニシャンぶりが確認できる優品と感じました。

なお、西本願寺から移築された織部好みの名茶室「篁庵(こうあん)」の内部は、今回、公開されていません。

三玄院 原在中による「八方睨みの虎」(ポスターより)

 

方丈は1817(文化14)年に建てられた江戸時代後期の建物です。
(その前年、焼失したものの再建)

しかし、庭園や庫裡を含め、ここは元来、三玄院のものではありませんでした。

三玄院が現在の場所に寺域を定めたのは明治時代に入ってからのことです。

 

明治維新の後、経済基盤が著しく弱体化した大徳寺は、塔頭寺院の整理統廃合にふみきります。

現在、三玄院がある場所にもともとあったのは龍翔寺。

龍翔寺がこの「塔頭リストラ」によって、1889(明治22)年、実質的に廃された後、存続した三玄院がそこに移り、現在みられる方丈等の建物も受け継がれました。

もちろん龍翔寺自体、廃されるくらいですから相当に建物は傷んでいたのでしょう。

現在みられる方丈は内装も含め近代以降、当然に修復、改良が加えられているものと推測されます。

 

では、もとの三玄院自体はどこにあったかというと、現在ある場所、つまり旧龍翔寺エリアの西に位置していたのだそうです。

建物などはすでに失われています。

実はこの明治の大リストラによって、三玄院は施設と共に、重大な寺宝を失ってもいます。

 

例の有名な長谷川等伯による襖絵群です。

 

狩野派に伍すため、京都で売り出し中だった等伯は、三玄院の開祖春屋宗園に襖絵を描かせてほしいと願いでますが、断られていました。

ところが、等伯はこの住職が留守をしている間に勝手に寺に入り込み、襖絵を施してしまいます。

春屋宗園が怒ったのはもちろんですが、その出来栄えが素晴らしかったため、そのまま襖絵は残されることになりました。

なりふり構わず自己アピールした等伯の必死さと自負、そしてその才能を象徴するエピソードとしてよく知られています。

 

その等伯による伝説的襖絵が、明治の塔頭リストラ時、三玄院から流出。

現在は高台寺塔頭圓徳院(実物は京博と石川県七尾美術館に寄託)と楽美術館に分蔵されています。

残っていれば三玄院の大名物となったはずですが、こうしたレガシーを手放さざるをえないほど、当時、経済的に窮していたということでしょう。

 


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さて、三玄院に寺域を明け渡し、一旦、廃寺となってしまった龍翔寺。

その後、劇的な復活を遂げます。

 

1925(大正14)年、大阪の実業家山口玄洞の寄進によって、大徳寺境内の北西、総見院の西隣にあたる場所に新たに建立され現在に至っています。

ちなみに、山口玄洞は寺への寄進を生き甲斐にしていたような人物で、彼によって復活した各地の堂塔は100を超えるといわれています。

 

現在の龍翔寺は大徳寺派の修道道場となっていて、内部は通常非公開ですが、立派な楼門だけはいつでもじっくり鑑賞することが可能です。

この大正復活伽藍の設計にあたったのが近代仏堂建築で数々の実績を残した京都府技手、安井猶次郎。

火灯窓と丸窓を組み合わせた楼門のデザインからは古典を意識しながらもどことなく近代の様式が漂ってくるように感じられます。

現在の龍翔寺は、三玄院よりも広い敷地にいずれも安井猶次郎設計による堂宇が立ち並んでいて、大徳寺塔頭内でも有数の規模を誇っています。

 

三玄院と龍翔寺。

今はどちらも静かに大徳寺内に佇んでいますが、実は結構ダイナミックに関係している塔頭です。

三玄院で配られているリーフレットには、当然のことながら、明治期の混乱等は記載されておらず、今では主に、篁庵でのお茶会や、石田三成が帰依していたことで有名な寺院となっています。

 

龍翔寺 楼門