狩野尚信 知恩院方丈障壁画

 

知恩院の大方丈と小方丈内部が特別公開されています(「京の冬の旅」2023年1月20日〜3月19日 休止日あり)。

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大方丈の主要な各間に描かれた金碧障壁画は狩野尚信(1607-1650)の代表作です。

およそ400年の時間を経た金箔が鈍く重みを帯びて輝く様子は、復元模写に切り替わってしまった二条城二の丸御殿ではもはや味わえない、知恩院ならではの壮麗美

圧巻です。

なお、室内の奥にまで立ち入ることはできませんから、ディテールを楽しみたい場合は小さい双眼鏡などが必要かと思います。

(それとこの時期、知恩院の中はまるで冷蔵庫です。特に足元の防寒対策をお忘れなく。)

 

 

狩野尚信は、有名な探幽(1602-1674)の弟ですけれど、どこかミステリアスなところがつきまとう絵師でもあります。

 

父は狩野孝信(1571-1618)。

長兄探幽の5歳年下にあたる次男として京都に生まれています。

1630(寛永7)年、江戸の竹川町(現在の銀座7丁目あたり)に屋敷を与えられ、幕府おかかえの絵師としてその地位を確立。

探幽はすでに独立して別家をたてていましたから、孝信からつづく系統は尚信が継ぐことになり、この流れが後に狩野四家の一つ、木挽町家といわれる一派を形成することになります。

 

20歳代前半で徳川将軍家から絵師として高い評価を得ていた尚信。

彼の没後ではありますが、江戸中期宮廷サロンにおける中心人物の一人、近衛家熙(1667-1736)もこの絵師の才能を賞賛していたことが知られています。

家熙の言動を茶人山科道安が記録した『槐記』には、この当代随一の文化人が尚信の筆について「古今に超絶する」と口を極めて褒めちぎっていることが記されています。

その画業と才能は公家社会でも十分認識されていたということでしょう。

 

 

72歳まで生きた探幽に比べ、尚信は44歳で没しています。

今の感覚では十分に早死にですけれど、当時の平均的な寿命を考えると極端に短命だったとはいえないし、若い頃から筆をとっていた尚信にはそれなりの数の作品が残されていてよいはずです。

 

ところが、尚信筆とされる絵画はその高い評判に比してとても少ないのです。

狩野派(鍛冶橋家)に学んだ薩摩の絵師、木村探元(1679-1767)が『三暁庵主雑志』で証言しているところによると、尚信は「出来の悪い絵は破って捨てた」といわれていて、かなりの完璧主義者だったことが推測できます。

さらりとした小品をあちこちに残し有力寺院などともそつなく付き合っていた探幽に比べ、なんとなく尚信のエキセントリックな人柄が滲んでくる証言。

 

さらに、その最期に関する二つの逸話が尚信のややミステリアスな雰囲気を高めています。

 

『東洋美術大観』の中で狩野謙柄が語っている言によると、尚信の命日として池上本門寺の墓碑に記されている「慶安3年4月7日」とは、実は彼が亡くなった日ではなく、「失踪した日」なのだそうです。

行方しれずとなってからは「支那にいこうとしたか」あるいは「釣りが好きだったので溺死したのではないか」とされています。

 

また、かの岡倉天心は『日本美術史』の中で、尚信の墓は池上ではなく、「上州」にあるとしています。

天心によれば、三代将軍徳川家光が尚信を兄探幽より高く評価し、狩野宗家を尚信に継がせようとしたため、尚信は探幽一派から危害を加えられるのを恐れ失踪。
結果、群馬で没したということになるようです。

 

いずれも尚信没後相当の期間を経た伝聞的な話であり、明確なエビデンスも確認されていません。

池上本門寺にある尚信のお墓は相当に立派なものでもあることから、狩野謙柄や岡倉天心の語る尚信の数奇な生涯は現実とは見做されていないようです。

しかし、どちらも「失踪」しているという点は共通しますから、なんらかの常軌を逸した尚信の行動がひょっとするとあったのかもしれません。

(以上は2014年 板橋区立美術館他で開催された『狩野三兄弟展』図録 の解説等を参考にしています)

 

ということで、こうした謎めいた生涯も素敵な尚信なのですが、公開されている知恩院方丈の障壁画をみると、その作風にも探幽とは違った独特の才能が確かに感得できます。

例えば「鶴の間」に描かれた大柄な鶴の表現には、探幽に特徴的な、周囲の気を払うように整えられた格調高さは乏しい代わりに、写実と気品を兼備したなんともいえないまろやかな曲線美が大胆に出現しているように感じられます。

 

狩野尚信 二条城 黒書院一の間「松柴垣禽鳥図」

 

狩野孝信の息子たち、探幽・尚信・安信三兄弟の教育係として知られる人物に狩野興以がいます。

彼は、孝信の兄で永徳の長子として近世初期の狩野派を率いた狩野光信の高弟です(狩野家の出身ではありませんが、その功績が認められて狩野姓を名乗ることが許されました)。

尚信はこの興以による教育に三兄弟の中で最も忠実であったように思えます。

二条城黒書院の障壁画はまだ20歳そこそこだった若き尚信の作とされていますが、その仕上げには狩野派のベテラン絵師たちがサポートの筆をとったとされています。

現在、二条城障壁画展示収蔵館では、ちょうど、その尚信が描いた黒書院一の間「松柴垣禽鳥図」の原画が公開されています。

余白を活かした優美さに独特の個性が感じられると思います。
(「新春を寿ぐ~松竹梅」展示  2023年2月23日まで)。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

 

この「松柴垣禽鳥図」には、実際サポートに加わったかもれない狩野興以自身のテイストが若い尚信の筆を通して現れているようにも思えます。

知恩院の障壁画は壮年期に入っていた尚信の作品で、興以はすでに世を去っていたはずですが、どことなく興以から直接的に受け継がれたとみられる柔らかい造形感覚が印象に残ります。

探幽に比べて知名度がかなり落ちる狩野尚信。

しかし、永徳ー探幽ラインとは別の、光信ー興以と流れた画風の到達点を示しているような存在として、興味は尽きません。

 

 

 

 

大徳寺 芳春院 呑湖閣と「京のn閣」

 



京都市観光協会主催「京の冬の旅」企画の一環で、大徳寺塔頭芳春院が、現在、特別公開されています(2023年1月7日〜3月19日)。

ちょっと覗いてみました。

ja.kyoto.travel

 

数ある大徳寺塔頭の中で最も北に位置しています。

寺域は東西に細長く、西側の大半は墓地エリアとなっていて非公開です。

ここの最大の見どころは、なんといっても昭堂、呑湖閣(どんこかく)。

 

 

撮影禁止なので、上の画像は掲示されているポスターを写したものなのですが、驚くのは、実物が全くこの写真の通りに見える、というか、このようにしか「見ることができない」建築だということ。

芳春院の寺域は、比較的長さと広さが確保されている東西の軸線に対し、南北軸がとても狭い。

余裕の乏しい南北軸上に、大徳寺内の塔頭スタイルとしては珍しく、池泉を設けつつ、さらにこの二層楼閣が建てられているので、空間的にはかなり凝集感が高くなります。

さらに東と南を別の建物が取り囲んでいますから、楼閣全体を視認するためのスポットが非常に限られてしまうのです。

呑湖閣をとらえた写真がほとんど同じようなアングルになっているのはこのためです。

かなり窮屈な空間ではあるのですが、そこが逆にこの楼閣が持つ異形の美しさを際立てているところもあって、池を含んだ呑湖閣空間はそれ自体が別世界のような風情を醸していて見飽きることがありません。

 

1608(慶長13)年の創建。

それからおよそ200年後の1796(寛政8)年、芳春院は大きな火災をおこし、大半の堂宇を失うとともに、それまで建っていた初代呑湖閣も焼け落ちてしまいました。

現在見られる呑湖閣は文化年間(1804-1818)に再建された19世紀初頭の建築物です。

扉はクローズされているので内部の様子を確認することはできませんが、開祖である玉室宗珀像や加賀前田家歴代の位牌などが安置されているそうです。

通常は非公開。

ただ、境内の北、今宮通から呑湖閣の上層部分だけはいつでも見ることができます。

 

さて、呑湖閣は「京の四閣」の一つとされます。

金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)までが「京の三閣」。

これに一つ加えて「四閣」が何か、となると呑湖閣が入閣するわけです。

でも、この表現、なんとなく微妙な「くくり方」のように思えます。

「三閣」までは理解できても、次は「四閣」というより「五閣」といった方が収まりが良いのではないか、と。

知名度からみても「三閣」と比べてしまうと呑湖閣はグッと下がるので、あえて「四閣」とする意味があるのか、とも感じてしまう。

 

実は「京のn閣」といった場合、結構、冷然としたヒエラルヒーのような関係が確認できます。

「四閣」の秘密もこの関係性にどうやら隠されていそうに思えるのです。

 

金閣銀閣は自分たちのことを「京の二閣」などと称していないし、実際、そんな言い方を聞いたこともありません。

プライド高いこの京都観光ツートップはあくまでも「金閣銀閣」なのです。

 

ところが、「三大なんとか」と言いたくなるのが世の常で、そこに国宝飛雲閣が格好のNo.3としてはまりこむことになりました。

「三大なんとか」の場合、一つ目と二つ目はすんなり決まっても三つ目となると「諸説あり」となることが多いのですが、「京の三閣」の場合、飛雲閣に匹敵する楼閣建築は幸か不幸かありませんから、異論なくこの三つに決まっています。

 

でも、「三大なんとか」といった後にはやはり「五大なんとか」も言いたくなるわけで、「京の五閣」というセットも存在します。

「三閣」に加えて、一般的には、この呑湖閣と東福寺開山堂の「伝衣閣(でんねかく)」が追加され「五閣」と呼ばれています。

 

しかし、呑湖閣について語られる時、「京の五閣」の中の一閣、とは言わないわけです。

あくまでも「京の四閣」の一つ。

つまり東福寺伝衣閣について、呑湖閣側は「一緒にしないでほしい」という立場なのでしょう。

結果、妙に落ち着きのない「京の四閣」という表現が使われることになっています。

 

他方、伝衣閣について語られるときは、不思議なことに、「京の四閣」とは言われず、「京の五閣」の中の一つとしてとりあげられることが多いようです。

伝衣閣側は、謙虚というか鷹揚というか、呑湖閣を差し置いて自分たちを「四閣目」とはせず、あくまでも5番目に加えてもらえたら嬉しいというような立場にみえます。

ということで、「京の五閣」といった場合、金閣+銀閣飛雲閣→呑湖閣→伝衣閣というヒエラルヒーがしっかり根付くことになりました。

この関係性を維持確認するためにも呑湖閣はあえて「京の四閣」を強調せざるをえない、と推測しています。

 

ところが、前にも書きましたけれど、さらにややこしい「閣」が京都には存在しています。

伊東忠太が設計した大雲院の「祇園閣」です。

これを建てた大倉喜八郎が「金閣銀閣につぐ銅閣だ」と冗談混じりに喧伝したことで有名ですが、この冗談トリビアが意外としぶとく今でも語られていたりします。

その異形さも近年では悪趣味性を超えて一定の価値をもちつつあり、実際、祇園閣は国の登録有形文化財として認められています(ちなみに呑湖閣は京都府指定有形文化財)。

ではいっそのことと、祇園閣を加えて「京の六閣」としてしまうと、「五閣」よりすわりが悪いし、何より京都で「ロッカク」といえば「六角堂」なので、語感としても紛らわしいことになります。

ならば「京の七閣」としてしまいたいところですが、その場合、7つ目の候補はどこになるのでしょうか。

かなり「閣」っぽい建物としては勧修寺の観音堂あたりが有力かもしれませんが、ここは「○○閣」とは名乗っていないし、市内とはいえ実質山科エリアですから、「京のn閣」とするにはちょっと厳しいかもしれません。

 

100年後、「京のn閣」のnは幾つになっているのか。

呑湖閣を観ながらそんなことを妄想していました。

 

鹿苑寺 金閣



慈照寺 銀閣

 

西本願寺 飛雲閣

 

東福寺 伝衣閣

 

大雲院 祇園



勧修寺 観音堂

 

芳春院 呑湖閣