大徳寺 芳春院 呑湖閣と「京のn閣」

 



京都市観光協会主催「京の冬の旅」企画の一環で、大徳寺塔頭芳春院が、現在、特別公開されています(2023年1月7日〜3月19日)。

ちょっと覗いてみました。

ja.kyoto.travel

 

数ある大徳寺塔頭の中で最も北に位置しています。

寺域は東西に細長く、西側の大半は墓地エリアとなっていて非公開です。

ここの最大の見どころは、なんといっても昭堂、呑湖閣(どんこかく)。

 

 

撮影禁止なので、上の画像は掲示されているポスターを写したものなのですが、驚くのは、実物が全くこの写真の通りに見える、というか、このようにしか「見ることができない」建築だということ。

芳春院の寺域は、比較的長さと広さが確保されている東西の軸線に対し、南北軸がとても狭い。

余裕の乏しい南北軸上に、大徳寺内の塔頭スタイルとしては珍しく、池泉を設けつつ、さらにこの二層楼閣が建てられているので、空間的にはかなり凝集感が高くなります。

さらに東と南を別の建物が取り囲んでいますから、楼閣全体を視認するためのスポットが非常に限られてしまうのです。

呑湖閣をとらえた写真がほとんど同じようなアングルになっているのはこのためです。

かなり窮屈な空間ではあるのですが、そこが逆にこの楼閣が持つ異形の美しさを際立てているところもあって、池を含んだ呑湖閣空間はそれ自体が別世界のような風情を醸していて見飽きることがありません。

 

1608(慶長13)年の創建。

それからおよそ200年後の1796(寛政8)年、芳春院は大きな火災をおこし、大半の堂宇を失うとともに、それまで建っていた初代呑湖閣も焼け落ちてしまいました。

現在見られる呑湖閣は文化年間(1804-1818)に再建された19世紀初頭の建築物です。

扉はクローズされているので内部の様子を確認することはできませんが、開祖である玉室宗珀像や加賀前田家歴代の位牌などが安置されているそうです。

通常は非公開。

ただ、境内の北、今宮通から呑湖閣の上層部分だけはいつでも見ることができます。

 

さて、呑湖閣は「京の四閣」の一つとされます。

金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)までが「京の三閣」。

これに一つ加えて「四閣」が何か、となると呑湖閣が入閣するわけです。

でも、この表現、なんとなく微妙な「くくり方」のように思えます。

「三閣」までは理解できても、次は「四閣」というより「五閣」といった方が収まりが良いのではないか、と。

知名度からみても「三閣」と比べてしまうと呑湖閣はグッと下がるので、あえて「四閣」とする意味があるのか、とも感じてしまう。

 

実は「京のn閣」といった場合、結構、冷然としたヒエラルヒーのような関係が確認できます。

「四閣」の秘密もこの関係性にどうやら隠されていそうに思えるのです。

 

金閣銀閣は自分たちのことを「京の二閣」などと称していないし、実際、そんな言い方を聞いたこともありません。

プライド高いこの京都観光ツートップはあくまでも「金閣銀閣」なのです。

 

ところが、「三大なんとか」と言いたくなるのが世の常で、そこに国宝飛雲閣が格好のNo.3としてはまりこむことになりました。

「三大なんとか」の場合、一つ目と二つ目はすんなり決まっても三つ目となると「諸説あり」となることが多いのですが、「京の三閣」の場合、飛雲閣に匹敵する楼閣建築は幸か不幸かありませんから、異論なくこの三つに決まっています。

 

でも、「三大なんとか」といった後にはやはり「五大なんとか」も言いたくなるわけで、「京の五閣」というセットも存在します。

「三閣」に加えて、一般的には、この呑湖閣と東福寺開山堂の「伝衣閣(でんねかく)」が追加され「五閣」と呼ばれています。

 

しかし、呑湖閣について語られる時、「京の五閣」の中の一閣、とは言わないわけです。

あくまでも「京の四閣」の一つ。

つまり東福寺伝衣閣について、呑湖閣側は「一緒にしないでほしい」という立場なのでしょう。

結果、妙に落ち着きのない「京の四閣」という表現が使われることになっています。

 

他方、伝衣閣について語られるときは、不思議なことに、「京の四閣」とは言われず、「京の五閣」の中の一つとしてとりあげられることが多いようです。

伝衣閣側は、謙虚というか鷹揚というか、呑湖閣を差し置いて自分たちを「四閣目」とはせず、あくまでも5番目に加えてもらえたら嬉しいというような立場にみえます。

ということで、「京の五閣」といった場合、金閣+銀閣飛雲閣→呑湖閣→伝衣閣というヒエラルヒーがしっかり根付くことになりました。

この関係性を維持確認するためにも呑湖閣はあえて「京の四閣」を強調せざるをえない、と推測しています。

 

ところが、前にも書きましたけれど、さらにややこしい「閣」が京都には存在しています。

伊東忠太が設計した大雲院の「祇園閣」です。

これを建てた大倉喜八郎が「金閣銀閣につぐ銅閣だ」と冗談混じりに喧伝したことで有名ですが、この冗談トリビアが意外としぶとく今でも語られていたりします。

その異形さも近年では悪趣味性を超えて一定の価値をもちつつあり、実際、祇園閣は国の登録有形文化財として認められています(ちなみに呑湖閣は京都府指定有形文化財)。

ではいっそのことと、祇園閣を加えて「京の六閣」としてしまうと、「五閣」よりすわりが悪いし、何より京都で「ロッカク」といえば「六角堂」なので、語感としても紛らわしいことになります。

ならば「京の七閣」としてしまいたいところですが、その場合、7つ目の候補はどこになるのでしょうか。

かなり「閣」っぽい建物としては勧修寺の観音堂あたりが有力かもしれませんが、ここは「○○閣」とは名乗っていないし、市内とはいえ実質山科エリアですから、「京のn閣」とするにはちょっと厳しいかもしれません。

 

100年後、「京のn閣」のnは幾つになっているのか。

呑湖閣を観ながらそんなことを妄想していました。

 

鹿苑寺 金閣



慈照寺 銀閣

 

西本願寺 飛雲閣

 

東福寺 伝衣閣

 

大雲院 祇園



勧修寺 観音堂

 

芳春院 呑湖閣