中平卓馬展図録の「重さ」

 

先日まで東京国立近代美術館で開催されていた「中平卓馬 火|氾濫」展(2024年2月6日〜4月7日)の図録が自宅に届きました。
先月の鑑賞時に予約していたものです。

到着した日は4月の半ばくらいだったでしょうか。
展覧会自体が終わってから10日以上経過していました。
図録の刊行が展覧会の開催に間に合わないことは珍しい事態ではありませんが、ここまで遅れるケースはなかなかないかもしれません。

なお、私はこの図録について特に急いで入手したかったわけではありませんから、以下の雑文が刊行の遅れについての不満を述べているものではないことを、あらかじめ念の為、申し添えておきます。

www.momat.go.jp

 

そもそも東近美は展覧会を案内したHPの中で図録の刊行が「3月頃」になると予告していました。
初めから本展の開催始期である2月6日に図録が間に合わないことを事前に告知していたわけです。

届いた現物を確認してその事情がすぐにわかりました。
図録には「中平卓馬 火|氾濫」展会場の「展示風景」が掲載されていたのです。
展示風景は早くても展覧会の準備が整った開催直前にならないと撮影できませんから印刷等も当然それに連動し開催始期ギリギリからの着手ということになります。
おそらく2月初旬頃から製本作業が始まったのでしょう。
ただ、当初予定していた3月中の刊行は作業に時間がかかったのかさらに遅れ、会場での直販はなんとか開催期間内に間に合ったという状況だったようです。
500ページに迫るという浩瀚な図録です。
製本自体に想定以上の負荷がかかったのかもしれません。

こうした「展示風景」の実際を図録に収めるというやり方は、モダン・アート系の企画展ではよくあることです。
巨大なインスタレーションなどの場合、展覧会が始まる前にその全景を写すことが困難であることが多く、実際に作品が会場に設営された状態を撮影し図録用として掲載する必要があるからです。
この良い例が現在京都市京セラ美術館で開催されている「村上隆 もののけ京都」展(2024年2月6日〜9月1日)でしょう。
同展の図録も展覧会開催開始後の刊行であることが告知されています(そもそも作品自体の制作が展覧会開催に間に合っていなかったというオチまでついているのですが)。
またこれも巨大なファイバーアートが多数展示された京都国立近代美術館の「小林正和展」(2024年1月6日〜3月10日)では、「テキスト編」をまず展覧会開催と同時に刊行し、「図版編」は会場風景の写真撮影後、テキスト編を購入した人に別途郵送するという二分冊スタイルをとっていました。

 

ただ、「中平卓馬」展は写真展です。
大きな機会損失を覚悟しつつ、図録の刊行を遅らせてまでわざわざ展示風景を撮影するという意図がどこにあったのか、はじめは理解できませんでした。

しかし内容をよくみるとやはり「展示風景」を図録に収めることがどうしても必要だったのだろうということがわかってきます。

まずこの展覧会のタイトルにもある「氾濫」の存在がその理由の一つと思われます。
1974年、東近美で開催された「15人の写真家」展に出品された中平卓馬の代表作です。
この「氾濫」は48枚からなるカラー写真が組み合わせされ、樹脂ボードに直接貼られるという形態がとられています。
つまり十分に巨大なのです。
図録用の写真が会場設営前に撮影ができなったことも理解できます。
また東近美は「氾濫」を展示するにあたり、1974年展への出品作そのものと、2018年のモダンプリント、その両方を展示するという徹底ぶりでこの作品を披露していました。
図録では両バージョンの色味の違いなどが実際の展示風景をとらえた写真によって確認することができます。
東京国立近代美術館にとって中平卓馬と最も強い結びつきをもった大作である「氾濫」を図録に正確に収めるためには実際の会場展示を撮影する必要がどうしてもあったということなのでしょう。

 

中平卓馬「氾濫」(東京国立近代美術館での鑑賞時に撮影)

 

もう一つの理由としては本展の異様な展示内容そのものも関係していたかもしれません。
一般的にはオリジナルプリントの写真群が展示されることが多いわけですが、中平は「作品」という扱い、あるいは「写真展」そのものに懐疑的な考えをもっていました。
1973年に中平自身が多くのフィルムを焼却してしまったこともオリジナルプリントの展示を難しくした要因でしょうけれど、東近美はこうした彼の「写真展示」への懐疑的な姿勢を尊重する意味でも、中平が作品発表の場として選んだ当時の雑誌類などをそのまま展示するという方式を特に展示の前半では重視していました。
図録でも大量の雑誌写真が紹介されています。
しかし図録上ではその多くが平面的な「コピー」になってしまいます。
実際の展示風景を併録することで、「雑誌」というマテリアルの立体的なイメージを取り込みたかったのかもしれません。

 

中平卓馬展の会場風景(東京国立近代美術館での鑑賞時に撮影)

 

会場のデザインはかつて同じ東近美で開催された「窓展」等で実績がある山内裕太(東京スタヂオ)、そして家入悠が担当しています。
散らかりがちな雑誌写真などを整理しつつ、膨大な作品群をスマートに展示した会場風景も図録に収録されることで、鑑賞者した人はもちろん、会場に足を運べなかった人にも展覧会の雰囲気がよく伝わるとみられます。

この規模で中平卓馬が回顧される機会が今後早々に実現するとは考え難いと思います。
東近美としても本展図録を「決定版」として残すという強い意志があったのかもしれません。

図録所収のテキストも貴重です。
中平卓馬が急性アルコール中毒によって記憶障害を発症してしまったことはよく知られていますが、それが具体的にどのようなレベルだったのか、倉石信乃による「中平卓馬『記録日記一九七八年』について」という論考にそれをうかがい知ることができる記述がありました。
中平は逆向性の記憶障害、つまり「過去」についての記憶が欠落した状況の恐怖を赤裸々に語っています。
彼は中学生になった息子の姿が「大きすぎる」という恐ろしい違和感を抱いていたのだそうです。
聞くだけでゾッとします。
また中平は逆向性だけでなく、前向性、すなわち現在と未来についても「記憶をなくしてしまうのではないか」という不安に苛まれていました。
そんな心理状況の中で、彼は写真家として復帰するため「沖縄」を選んだことになります。
復帰した後の中平卓馬の写真とそれ以前の写真との違いについて簡単に解釈することなどできないとする増田玲東近美主任研究員の姿勢に強く共感しました。


内容、分量ともにとても「重い」図録です。

 

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中平卓馬「パレード」(東京国立近代美術館での鑑賞時に撮影)