川田喜久治回顧展|KYOTOGRAPHIE

 

川田喜久治
見えない地図

■2024年4月13日〜5月12日(KYOTOGRAPHIE 2024)
京都市京セラ美術館(本館南回廊2階)

 

村上隆展とキュビスム展というブロックバスター的企画に加え、4月中旬からは「ジブリ金曜ロードショー」展までもが始まってしまった京都市美術館
今、日本で一番カオス的賑わいを見せているミュージアムかもしれません。

ただKYOTOGRAPHIE2024のプログラムとして同館内で開催されている川田喜久治展にまで外界の喧騒は及ばないようです。
落ち着いた雰囲気の中で鑑賞することができました。

www.kyotographie.jp

 

京都国際写真祭は比較的若いアーティストを積極的に取り上げていますけれど、すでに大家として名声を得ているベテラン写真家たちについても敬意を払うかのようにプログラムに毎回組み込んできました。

日本人写真家でいえば既に細江英公(1933-)、奈良原一高(1931-2020)等が特集されています。
川田喜久治(1933-)もそうした大家系の一人として今回作品が招かれたということなのでしょう。
川田はまさに細江や奈良原、それに東松照明(1930-2012)等とともに今や伝説的な写真家集団「VIVO」を設立したメンバーの一人であり、出世作にして代表作の一つでもある写真集『地図』は1965年の作品です。

 



ただ、今年91歳を迎えたこの人は日本写真史における巨匠であると同時にインスタグラムを使いこなしつつ作品を発表し続けている「現役」の写真家でもあるのです。
少しもエッジが丸くならない先鋭なそのセンスに驚くこととなりました。

www.ymterui.jp

 

川田を代表する仕事である「地図」(1960-1965)、「ラスト・コスモロジー」(1969-2000年代初頭)、「ロス・カプリチョス」(1960年代-インスタを含む現在まで)から作品がピックアップされています。
キュレーターである高橋朗(1976-)によれば、3つのシリーズをまとめて紹介する機会は今回が初なのだそうです。

 

 

セノグラフィーは京都文化博物館で開催されている「クラウディア・アンドゥハルとヤノマミ」展同様、おおうちおさむ が手がけています。
八角形状をした部屋のような展示空間がいくつも連ねられています。
概ね制作年代順に作品が展開されています。
川田が切り取った世界を文字通り誰かの部屋に招かれたような気分で鑑賞することができます。
部屋の内部だけでなく、さりげなく外側にも作品が展示されているので、展示ルートの往路では確認できなかった写真に復路で出会ったりします。
変化と面白さに富んだ空間演出と感じました。

 

 

半世紀以上におよぶ長い時代が写されていることになります。
中には「地図」に見られるように敗戦後のこの国を象徴するようなイメージもとらえられていますが、不思議なことに川田の写真からは「時代性」があまり感じられません。
多様なテクニックを投入しプリント技法そのものにも拘ってきたこの人の写真からは、「イメージ」そのものに事物景物が置き換わってしまったような印象をまず強く受けます。

ただ、その「イメージ」が、自己完結するように独自の世界に閉じ込められているわけでもありません。
現実の姿を変容させて写された事物景物にも関わらず、彼の写真からは、写されたもの自身から漏れ出す豊穣なまでの不安感や詩情性が同時に感じられるのです。

 

 

会場の最奥コーナーには川田の写真をスキャンしたデジタル映像が映し出されています。
その部屋を囲む壁面に写真家の印象的な言葉が記されていました。
(以下引用です)

過去の作品を様々な手法でスキャンすると、データに変換された映像は、
みな古い光と訣別したように見えるのが不思議です。
モニターにあらわれる不意の顔には新しい影をしたがえ、
私と同時性の空間を漂っているのです。

光と影は異化され、複雑な感情をよびこんで、
フォトジェニックな宙返りを何度か繰り返します。
色彩のなかでさらに影がかわり、あの時の名残は、
これから生きるものの妄執を想像させてくれるのです。

(引用は以上です)

これは写真のデータ化に関する川田の思いが記された文章ですが、「フォトジェニックな宙返り」という表現は、彼が写した多くの写真に共通して使えそうでもあります。

 

 

もくもくと湧き立つ入道雲を写した一枚の写真に強く惹かれました。
おそらく近年に撮影された作品と思われます。
雲の手前にはたくさん携帯電話の基地局らしい物体が並んでいます。
都市の高層ビル越しに写された写真であることがわかります。
雲と基地局の位置関係は非常に離れているわけですが、この写真の中ではそれが必然の関係であるかのように等価かつ克明に像を結びつつ、それでも互いに相容れない存在であることを見るものに強く明示してきます。
雲は雄大さよりもむしろその唯我独尊的存在感を主張していて、ある種の禍々しさまで想像させます。
しかしちょっと気を緩めてしまうと、この一枚は21世紀の都市における夏の空が写し出されている「爽快な」光景にも早変わりしてしまうのです。
これは川田がいう「フォトジェニックな宙返り」が鑑賞者の中に想起させられているともいえるのではないか、そんなことを考えたりしていました。

現在も継続している仕事である「ロス・カプリチョス」は当然にゴヤの版画集が意識されています。
「突拍子もない行い」を意味するこのタイトルには、写真家自身の姿勢も皮肉的に込められているのでしょうけれど、何より彼が写した写真自体がそれを具現化しているともいえそうです。

なお当会場は写真撮影が全面的に解禁されています。
(本展のすぐ隣では同じくKYOTOGRAPHIE「川内倫子+潮田登久子」展が開催されています)

 

 

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