パゾリーニ「テオレマ」4Kスキャン版

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ピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-1975)の生誕100年を記念し、ザジフィルムの配給で「テオレマ」と「王女メディア」が3月から各地のミニシアターで上映されています。

「テオレマ」(Teorema 1968)をまず鑑賞してみました。

 

www.zaziefilms.com

 

4Kスキャン版としてリマスタリングされています。

効果が十分感じられました。

テレンス・スタンプの宝石のような深みをもった緑の瞳、シルヴァーナ・マンガーノがほのかに漂わせる桃色のオーラ、マジックアワーを狙った外光の美しさ。

パゾリーニが画面上の配色に関してとてもこだわっていたことが感得できる仕上がりだと思います。

 

ミラノのブルジョワ一家が、テレンス・スタンプ演じる謎の青年の訪問を受けたのちに、突如変容していく姿が描かれていきます。

100分くらいの作品ですが、主人公ともいえるテレンス・スタンプは物語の前半にしか登場しません。

彼と接した一家の全員が、後半、それぞれに暴走を開始していきます。

 

謎の青年は、ただそこに居るだけで、家政婦エミリア(ラウラ・ベッティ)を含め、一家全員を無差別に、無条件に魅了していきます。

年齢、性差は関係ありません。

それどころか、突然の訪問客にも関わらず、一家が買う大型犬までたちどころに手懐けてしまいます。

 

工場主パオロ(マッシモ・ジロッティ)の息子ピエトロ(アンドレ・ホセ・クルス)と肌を合わせた後には、その母親ルチア(シルヴァーナ・マンガーノ)と情事。

パオロが体調を崩せば彼を意味ありげに看病、そして、頑ななまでにその父しか愛することができない娘オデッタ(アンヌ・ヴィアゼムスキー)をも魅了してしまいます。

青年が去った後、家政婦は「魔女」になり、息子は前衛アーティスト崩れに、母親は街で若者を拾う逆ナンパ夫人へと転落、娘は突然、身体が硬直し病院送り。

そして工場主は生まれたままの姿で火山の裾野を彷徨う。

 

スタンプが演じた謎の青年は、ブルジョワ工場主一家にとって、キューブリックが「2001年」の中で設定した「モノリス」のような存在です。

触れることによって、存在そのものが変容させられてしまうような、契機となるもの。

しかし、その変容の方向性は各人各様です。

家政婦はカトリックの神秘に、ピエトロは前衛アートの地獄へ、ルチアは抑制しがたい性衝動の渦、オデッタはヒステリックな精神の深淵に落ちていきます。

工場主パオロが裸体で叫ぶ姿には、マルクス主義のまさに「定理=テオレマ」が剥き出しのままパゾリーニよって表されているようにも感じます。

 

他方、青年が持っている無尽蔵の「魅了性」は、fascinate、つまり、その語源を辿ればfascismにも繋がっています。

パゾリーニの父親はファシストとして名を馳せた人ですが、ラヴェンナの貴族出身ともいわれています。

高貴な血脈を信じながらも、一時、貧困世界で暮らさざるをえなかったパゾリーニから見て、おそらく最も鼻持ちならない人種がブルジョワ階層であったことは容易に想像できます。

パゾリーニは、1968年当時のテレンス・スタンプが持っていた妖しい貴族的雰囲気、fascinateな力を利用し、その冒し難い高貴性によって、ブルジョワジーたちが自らの存在意義を一瞬にして挫かれる様を描きたかったのではないかと想像しています。

また、青年=キリストの象徴も当然に含み込まれています。

唯一、ブルジョワに属していない家政婦エミリアまでもが青年に感化されてしまったのは、この、青年の持つカトリシズムの「魅了性」によるものだったのでしょう。

 

これでもか、というくらい俳優たちのアップが多用されます。

エメラルドのようなテレンス・スタンプの眼光が一家の人々を射抜く様。

その眼光は、最後には自らを工事現場の土砂に埋もれさせる家政婦の瞳に反射されていきます。

 

と、「テオレマ」では見事に崩壊していったブルジョワジーたちですが、この4年後、1972年、ルイス・ブニュエルが撮った「ブルジョワジーたちの密かな愉しみ」では、この人種が、パゾリーニが夢見たモノリス的貴族に破砕されるわけもない、実にしぶとく、かつ滑稽で、救いようがない連中であることが描かれています。

 

パゾリーニは惨殺される直前、「ソドムの市」で、破滅的なデカダンス映像を仕上げ、社会階層の上下全てを汚辱まみれにしてしまいますが、それは結局、ブニュエルが喝破していた、どうにもならない階層の固定性に、気がついてしまったからなのかもしれません。

「テオレマ」は、まだパゾリーニが何かをかろうじて信じていた頃の映画、だと思います。

 

なお、音楽はエンニオ・モリコーネが担当しています。

ただ、モリコーネらしいうねるような旋律美はテーマ音楽にその片鱗が感じられるだけです。

劇中の大半は、遅れてきたやや甘めの新ウィーン楽派的な無調系の音楽で支配されています。

映像とのマッチングを考えるとこれはこれで素敵なのですが、現代音楽風に仕上げるのであれば、いっそのこと、ルイジ・ノーノルチアーノ・ベリオといった、当時最も尖った成果を上げていたイタリア人作曲家に頼んでしまったら良かったのではないか、とも感じます。

もっともノーノはパゾリーニが除名されてしまった共産党の党員でしたから、無理筋だったかもしれません。

 

途中、フランシス・ベーコンの画集をめくるシーンがあります。

パゾリーニ自身のアートに関する趣向の一端が現れているようでした。