パゾリーニ生誕100年 |ぴあフィルムフェスティバル 2022

ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini 1922-1975)の生誕100年を記念し、今回の「ぴあフィルムフェステイバル2022」では彼の大規模特集が組まれました。

以下、雑感です。

 

pff.jp

 

2022年の今年はアンドレイ・タルコフスキーフランソワ・トリュフォーが「生誕90年」にあたり、それぞれ各地のミニシアターなどでレトロスペクティブ上映特集が開かれた一方、ジャン=リュック・ゴダールが91歳で亡くなっています。

ちょっと因縁めいた年になった感がありますが、こうしてみると、パゾリーニゴダールたちよりも10歳ほど年長の映画監督だったということがわかります。

しかし、そうした世代の差というような分析要素をパゾリーニは簡単に超越。

映像がみせる独特の存在感に圧倒されました。

「映画史」に収まりきらない人です。

 

PFFによる今回の回顧上映は「ようこそ、はじめてのパゾリーニ体験へ」と銘打たれています。

非常に著名な映画監督ですが、劇場での上映となると、その機会が限られていたことが前提になっているような表現です。

実際、私もまともに鑑賞したことがあったのは、DVDでの「ソドムの市」くらい。

今年、いきなりパゾリーニまみれ、になりました。

PFFに大感謝しています。

 

デビュー作「アッカトーネ」(1961)から遺作となった「ソドムの市」(1975)まで。

全21作。

日本未公開の短編まで網羅された、まさに「パゾリーニ大全集」となった今回の企画。

監督として活動していた期間は約14年間ということになりますから、単純に計算しても1年間に1.5作以上、映画を撮り続けていたことになります。

旺盛な文筆活動も含めて考えると、あらためて、この人の凄まじい創作エネルギーを実感します。

 

「ロゴパグ」(Ro.Go.Pa.G ,1963)と題された映画があります。

ロッセリーニゴダールパゾリーニ、グレゴレッティ、4監督の名前をつなげたオムニバス作品。

実際に組まれた映像の順番は、ロッセリーニの次にパゾリーニがきていますから、本来は「ロ・パ・ゴ・グ」となるはずです。

予告編段階ではタイトル通り「ロ・ゴ・パ・グ」の順になっていますから、何らかの事情で本編公開時点で「パ」と「ゴ」が入れ替えられた、ということかもしれません。

パゾリーニの作品は「リコッタ」として組み入れられています。

この短編に、彼のエキスが、ある意味、凝縮されているような印象を受けました。

 


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一人の映画監督が、キリストの受難劇とみられる映像を撮影している現場が描かれています。

監督役はオーソン・ウェルズ

61年の「アッカトーネ」からまだ2年しか経っていないのに、すでにこんな大物をイタリアに招いて作品を撮ってしまうというパゾリーニの影響力に驚きます。

 

あまりにも作品それぞれが個性的なので、パゾリーニの最高傑作は何なのかという問い自体が無意味かもしれませんが、個人的には「奇跡の丘」(1964)かなあと思っています。

その前年に撮られた「リコッタ」は、受難劇を題材にしているという点で、「奇跡の丘」を先取りしています。

ただ、伏線はすでに「アッカトーネ」やデビュー2作目の「マンマ・ローマ」に仕込まれていたようにも感じます。

 

ローマ郊外の貧民地区が舞台の「アッカトーネ」で全編にわたって使われている音楽は、「奇跡の丘」で映画そのものと合体していたかのようなバッハの「マタイ受難曲」。

「マンマ・ローマ」で悲劇的な最期を迎える少年が拘束台の上でとらされていたポーズは十字架上のキリストそのものを連想させます。

「リコッタ」は、傑作「奇跡の丘」をパゾリーニが産み出す前の最終段階にあたる「踏み切り台」として位置付けられるかもしれません。

 

撮影現場そのものの描写はモノクロなのですが、そこで撮られているとみられる映画作品の部分はカラーに切り替わります。

十字架とキリスト、それを取り巻く聖母や使徒たちが、バロック絵画のように静止したポーズを取らされている情景。

後のカラー作品で実現される、不自然なくらい鮮やかで印象的なパゾリーニ的色彩表現がこの短編のわずかなシーンにおいて、すでにみられると思います。

後にゴダールが「パッション」で同じような題材を描いていますが、ひょっとするとこの「リコッタ」からヒントを得たのかもしれません。

 


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それはともかく、肝心の絵画映画は俳優たちが監督の意に従わないために、いつまで経っても完成を迎えそうにみえません。

オーソン・ウェルズはそんなカオス状況にも超然として椅子に座っていて動こうともしません。

「リコッタ」は、同じ年に制作されたフェリーニの「8 1/2」を連想させるようなところがあります。

いつまで経っても完成しそうにない映画。

チンドン屋みたいな音楽隊の存在。

 

ウェルズ演じる映画監督に、あるジャーナリストがインタビューを試みます。

「我が国の偉大な芸術家、フェデリコ・フェリーニについてどう思うか」と。

ウェルズの答えは「彼はダンサーだ」というものでした。

脚本家としてフェリーニ映画に参加していたパゾリーニは、同じようにカトリックを好んで題材にしていたこの大監督と、どこかで繋がりつつも、一線を引こうと意識していたのかもしれません。

「リコッタ」において、フェリーニ的な要素をあえて詰め込むことで、区切りをつけたという印象を受けました。

 

「リコッタ」の舞台はローマ郊外とみられる荒涼とした地域。

60年代、急速に経済復興を遂げていたイタリアを象徴するような白く無機質なモダニズム団地がちらりと映ったりします。

「アッカトーネ」も「マンマ・ローマ」も同じような場所を舞台としていて、復興とそれに取り残された貧しさの対比が鮮明に描かれていました。

感覚的にも実質的にも「光と影」が生み出す効果をパゾリーニはどの作品にも濃厚に組み込んでいます。

 

「生の三部作」(「デカメロン」「カンタベリー物語」「アラビアンナイト」)で頂点に達する、「鼻」と「胃袋」に直接作用するような強烈な映像表現が、「リコッタ」の中にもすでに描かれています。

実質的な主役でもある貧しいエキストラの男、ストラッチがリコッタチーズを貪る場面。

男の体臭やチーズの匂い、体内で吹き出る唾液と胃酸。

パゾリーニ作品を特徴づける、その容赦ない「生っぽさ」の描写が「リコッタ」ですでに全開しています。

 

「ロゴパグ」というオムニバスの中にあることで、パゾリーニの異様さがさらに際立っているといえるかもしれません。

ロベルト・ロッセリーニが撮った「潔白」は、巨匠による無駄のない技術で撮られた軽妙なコメディ作品。

ジャン=リュック・ゴダールの「新世界」は、そもそもこのオムニバスが前提としている「冷戦後における世界の終末」というテーマを、唯一、生真面目にうけ止めた心理劇。

最後のウーゴ・グレゴッティによる「にわとり」は、現代の消費者行動を皮肉ったやや説明臭い家庭劇です。

他方、パゾリーニの「リコッタ」は、なんとも形容しがたい、ごった煮的生命力と諧謔の苦味が入り混じった、ファンタジーともメタ映画とも括れない異形さを持っていて、4作の中で突出した魅力を放っています。

 


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今回、まとめてパゾリーニ作品を鑑賞したわけですが、あらためて、昨今の4K,2Kリストア技術の素晴らしさを実感してもいます。

最近リストアされた「テオレマ」と「王女メディア」の映像美を観てしまうと、その他の作品では画像の荒さがやはり気になってしまう。

もちろん35ミリフィルムによる独特の濃厚な質感も素晴らしいのですが、例えば「豚小屋」におけるエトナ火山付近の映像などは、リストアされることでさらに美しさが倍増するのではないかと想像したりもします。

 

3年後、2025年は、パゾリーニが惨殺されてから、50年。

アニバーサリーというには不謹慎なのですが、これを機に他作品のリマスタリングがさらに企画されて欲しいとも思いました。