若武者|二ノ宮隆太郎

 

コギトワークスの配給により、二ノ宮隆太郎(1986-)監督作品「若武者」(2023)が各地のミニシアターで公開されています。

ブコメでもBLでも、汗臭いヤングコミック系映画でもありません。
逆に社会派をきどった問題提起型映画というわけでもありません。

ジャンル分けするとすればまぎれもなく青春映画なのでしょうけれど、どこか割り切れない不思議な魅力を湛えた作品でした。

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映像がまず独特です。
古風なスタンダードの上映サイズをあえて採用しているにも関わらず、登場人物たちが画面を紋切り型に占領することがほとんどありません。
多くの場面で、彼ら彼女らは画面の中心からずれたアングルで写されています。
一方、周りの情景は単純に「背景」や「後景」に退かされてはいません。
人物と事物景物がほぼ等価に扱われています。
人々を取り巻く環境や関係性、生活感や空気感をとても重視しているとみられる二ノ宮監督の企図が全てのシーンに行き渡っているように感じられます。

人物を取り巻く世界を重視する一方で、この映画では固有の場所をすぐに特定できるような要素がほとんど見受けられません。
なんとなく東京のダウンタウン的な雰囲気が感じられるものの、監督はことさらに東京的要素や地域性を強調してはいません。
どこにでもありそうなのに、はっきりとはしない、ある街が描かれています。

地域性をあえて秘匿しているような「その場所」が、先述した映像表現によって登場人物たちそのものと不可分に結びつけられています。
寓話性と現実感がなんともいえない微妙なバランスで混淆しているのです。

主要登場人物である三人の若者たちは「勝ち組」というほどに恵まれた生活を送ってはいないものの、決して不器用なだけの社会不適合者ではありません。

異様なほど感情を表にあらわさない主人公の渉(坂東龍汰)は勤め先で実直に作業をこなし、上司の悪口を延々と呟く先輩ダメ社員を軽蔑した眼差しでみるほどには社会人として適合しています。
饒舌にいつも周囲を小馬鹿にしつつふらついている英治(髙橋里恩)もバイト先の居酒屋では全くそんなそぶりを見せない爽やかな店員として振る舞い、しっかり彼女との世界を楽しんでいる男です。
介護施設で働く光則(清水尚弥)は、明らかに偏った思考をもっていそうなのに表面的には丁寧に老人たちと接し、上司からも信頼されているようにみえます。
三人とも、熱く社会に牙をむいて抵抗するという意味での「若武者」ではないのです。

しかし渉は父親(豊原功補)に深く強い怨讐の念を抱き、その憎しみを自己の中で発酵させているかのようです。
英治は、ハネケの「ファニーゲーム」に出てくる若者たちには到底及ばないものの、観る者に十分不快感を押し付けてくる程度には「悪意」そのものをコミュニケーションの必須材料として他者への攻撃機会を常に貪欲に求めています。
光則は二人とは違って、一見、軽妙に生きているようでいて、その趣向にとてつもない暴力性を隠しているような不気味さを漂わせています。

渉と英治と光則は幼馴染みという設定です。
互いの服装のダサさを気にもせず接しているところにこの三人の若者が目に見えない相互依存関係にあることがそれとなく示唆されています。
三人は三人の関係性に寄りかかれば、それがほとんど意味がないことなのにも関わらず実存している実感を得られると知っているから、つるんでいるだけにすぎません。

三人は、一面では社会と合意しつつ、一面ではどす黒く周囲と斬り結ぶ存在として描かれています。
そういう見方をすれば彼らは確かに現代の「若武者」とみれなくもありません。

 


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ラスト近く、岩松了が演じる喫茶店のマスターと渉による対話のシーンにとても惹かれました。
一瞬、祖父と孫ほども年齢が離れている二人の人物が、深く互いの深層について分かり合えたかもしれないと感じさせた後、「おまえ、気持ち悪いよ」というマスターの一言が渉に投げかけられます。
小説や映画が描くほどに、世代を超えた相互理解などということが簡単に起こるはずもないという監督の冷厳なメッセージがじんわり響いてくるような名場面でした。

とにかく演出が素晴らしく、それに応えた俳優陣のテクニックも見事だと思います。
何かを予感させつつそれをはぐらかしていく間の取り方や、絵画的にならない範囲できっちり場面を固める構図設計に妙味を感じました。

キャラクターたちの語り口に一定のスタイルをあらかじめしっかり浸透させていたのでしょう。
テキストとしては破綻しているようにも感じる英治の長い毒舌台詞に不可思議な説得力が備わって聞こえます。
若手三人がどのように役柄を咀嚼し血肉化したのか、そのプロセスを聞いてみたくなるくらい面白い演技でした。
木野花はじめベテラン勢が監督の作家性に柔軟に応えているところも見どころだと思います。

この映画は役者たちからかなり距離をとり周囲の環境を十全に取り込むスタイルをとっています。
場末の路地にうっすら響くノイズ。
平凡な公園の木々が風に揺られて奏でるざわざわとした音。
墓場の横を走る電車の轟音。
こうした背景音がセリフとともに大切にされています。
余計なBGMが入ったら台無しです。
安易に音楽を映像に被せない二ノ宮監督のセンスに共感しました。

説明を極端に省いている映画でもあります。
渉の父親はなぜ息子にこれほどまで恨まれているのか。
ビール瓶で殴られるという傷害事件が起きているのになぜ警察沙汰になっていないのか。
三人とかつて世界を共にしていたとみられる事故死したもう一人の幼馴染みとはどういう人物だったのか。
などなど、推測に推測を重ねるしかない要素がたくさん残されています。
そして最終シーン自体です。
ファンタジーなのか、心象風景なのか、何かの寓意なのか、それともやはり現実なのか。
答えは示されていせん。

結果としてこの映画は観終わっているのにも関わらず、どこか観終わっていないような奇妙に美味しく苦み走った感覚を残します。
でも一方で、観ている最中は全く相応しくないと思えたこの「若武者」という、なんともいえず古臭いタイトルが、観終わった後にはこれ以上ないほどしっくりと響くのです。

さまざまな意味で「割り切れない」魅力に満ちた映画でした。

 

太刀「三条宗近」(東京国立博物館蔵)