2月9日からビクトル・エリセ(Víctor Erice 1940-)監督の「最新作」、「瞳をとじて」(Cerrar los ojos 2023)が各地のシネコンやミニシアターで公開されています。
「ミツバチのささやき」「エル・スール」「マルメロの陽光」、かつて全部観たことがあるのですが全部その内容を見事に忘れています。
以下、エリセ作品の「記憶」を無くした一観客の雑感です。
幾重にも「過去」が描かれた映画です。
しかし驚くべきことにこの映画には全くといってよいほど回想シーンがありません。
映画が写す時間軸は常に「現在」なのです。
どうやらこの監督は過去を回想として表現することの陳腐さや下品さをよくわきまえているようです。
回想シーンを使わない代わりにエリセは映画という芸術そのものがもつ構造を巧みに利用し「過去」を十全に表現しています。
「瞳をとじて」はその劇中にもう一つの映画「別れのまなざし」の断片を取り込むことによって重層的な過去そのものを繊細かつダイナミックに仕込んでいるのです。
映画はその「別れのまなざし」の一シーンから始まります。
1947年の物語を1990年に映画化したという「別れのまなざし」は、そのややザラついた画質が90年代当時のフィルム感を出していて、まるで本当に昔エリセが撮った作品のような肌触りを感じさせる、ある意味「傑作」です。
かつて中国で生き別れた娘を探している老ユダヤ富豪とその探索を依頼された元活動家の静かで緊張感あふれた対話から、上海を舞台とした探偵映画でも始まるのかと予感させたところで「別れのまなざし」は唐突に中断され、映画は2012年の「現在」にスリップし映像自体の質感もガラリと変化します。
この冒頭シーンだけでエリセは1947年、1990年、2012年という三層の時代を一切の回想シーンを伴うことなく2020年代を生きる観客の内部にジワリと浸透させてしまうことに成功しているのです。
主演俳優の失踪によって未完となった「別れのまなざし」を監督したミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、今は漁村で暮らし時折短編小説を書いているという、エリセ本人が多少投影されたかのような人物です。
そして彼自身、重苦しい「過去」を十分に背負っていることが明らかにされていきます。
ミゲルが失踪した友人にして俳優のフリオ・アレナス(ホセ・コロナド)の秘密に迫るテレビ番組へ出演したことから「瞳をとじて」のストーリーは展開していくのですが、それはあくまでも出演料や映像使用権などの経済的メリットを期待しての行動であり、彼自身はフリオのことも含めて丸ごと過去とは訣別したような生き方をしています。
しかし結果として過去に向かって一度開かれてしまった扉はミゲルを運命的に「1990年」へと引き戻していきます。
ある人物と再会したとき、ミゲル自身の過去に対する向き合い方が劇的に反転します。
思い出したくもない過去が、かけがえのない過去に遷移していくそのプロセスにも「映画」自体の構造が極めて効果的に使われています。
滅びゆく映画芸術に向けた愛惜すら滲ませたその手法は大袈裟な言い方と承知しつつも天才的としか表現できません。
ミゲルの息子が描いたカリカチュア。
かつて自分がサインした自作小説の古本との再会。
こうした過去を象徴するアイテムを巧みに取り入れながら時間軸を捻じ曲げることなく観客を登場人物たちの「記憶」にいざなうエリセの構成術に感嘆します。
さらにエリセ作品のアイコンであるアナ・トレントを「現在」の彼女、ありのままに登場させることで、観る人によってはその人自身の「過去」にまで侵食してくる効果がある映画ともいえそうです。
映画の冒頭とエンドロールに登場する石像はヤヌス神です。
青年の顔と老人の顔を前後に貼り合わせたこの彫像は過去と現在の不可分性を表しているのか、それとも過去も現在も含めて全て「今から始まる」ことを意味しているのか、私にはよくわかりませんが、ひょっとするとその両方の意味を含ませているのかもしれません。
登場人物はほとんど中高年以上の俳優たちで占められ、特に美男美女が登場したり風光明媚な景色や劇的な場面が連続する映画ではありません。
にも関わらず、どうしてこれほど格調高く美しい映像が撮れてしまうのでしょうか。
しかも3時間近くかかる作品なのに全く「長い」と感させない映画なのです。
失踪事件を追うというサスペンス要素がスパイスとしてよく効いていることは違いないのでしょうけれども、慌ても騒ぎもしないカメラワークによって終始観客の視線を捉えて離さない大人びた映像テクニックによるリズム感がその根底にあるようです。
ミゲルの友人であり映画編集技師であるマックス老人が象徴的な一言を発しています。
「映画はドライヤー以降、奇跡を起こしていない」と。
これはカール・テオドア・ドライヤーの大傑作「奇跡」そのもの、あるいはドライヤーの監督としての偉大さを語っていると思われるセリフですが、同時にエリセ自身の本心でもあるのでしょう。
ところが、「瞳をとじて」もその最後に本当に「奇跡」を起こしてしまうのです。
これほど見事なラストシーン体験はなかなかできないのではないでしょうか。
最後に謎めいた余談です。
映画の中でフリオが持っていた品々が写される場面があります。
唐突に日本語が登場します。
「三段峡ホテル」と書かれたマッチ箱です。
本当にこんなホテルがあるのだろうかと思って検索してみたら広島県にありました。
昭和30年代から続く温泉旅館らしいので「瞳をとじて」の中で使われても時代的に不思議ではありませんが、劇中映画は上海が舞台ですから辻褄が合いません。
特に意味はなく俳優フリオがたまたま持っていた思い出の品の一つという設定のようです。
複数回来日しているエリセですから彼自身がかつて宿泊した場所なのかもしれません。
おそらく監督の「記憶」に残る旅館だったのでしょう。