「ファースト・カウ」と「ショーイング・アップ」

 

ケリー・ライカート監督(Kelly Reichardt 1964-)の作品2本、「ファースト・カウ」(First Cow 2020)と「ショーイング・アップ」(Showing Up 2023)がほぼ同時公開されたので鑑賞してみました。

前者は東京テアトルとロングライド、後者はU-NEXTの配給です。

 

firstcow.jp

www.video.unext.jp

 

イカートの映画に接するのは初めてです。

今回の二本を観ただけですが、とても独特の「文体」を持った監督と感じました。

 

「ファースト・カウ」はこの女流が初めてA24と組んだ作品なのだそうです。

白骨化した人体が掘り起こされるシーンが冒頭に置かれています。

つまり、一見、いかにもA24的な不穏な作品として始まるわけですが、これはおそらくライカート流のA24ファンに向けた挨拶みたいなものであって、実は本編に遠く響く伏線にすぎません。

 

映画全体は終始、奇妙な緊張感と心地よさが兼備された映像表現で貫かれています。

A24の典型的作品にみられるホラー、サスペンス、バイオレンス、過激なセクシャル描写要素などはほとんどありません。

1820年代、アメリカ西部開拓期における白人と中国人、二人の男性が織りなす極めて地味に愉快なエピソードが淡々と紡がれていきます。

 

他方、「ショーイング・アップ」はほぼ現代の世界を描いている作品です。

ある美術系学校を舞台にアーティストたちの日常を切り取った内容で、特に大きな事件らしい事件が起こらない映画です。

二人の女性アーティストたちの微妙な感情のやり取りが丁寧にトレースされていくのですが、白人と東洋系という関係は、偶然かもしれませんが「ファースト・カウ」と同じです。

 

二作品に共通するライカート固有の「文体」があります。

 

まず、映画の「速度」です。

いわゆる「スローシネマ」的な長回しまではいかないのですが、この人のテンポ感はアダージェットとアンダンティーノの間くらい、ちょっと遅めになったり、時にやや早歩きになったりするくらいの速度で映像が進行しているように感じます。

つまり、だいたい「人が歩く速さ」のレンジで物語が動いていくのです。

不自然に飛んだり跳ねたり、猛スピードを出すことは極力回避されています。

また、例えば、シャンタル・アケルマンのように極端な長回しで時間を釘付けにすることもありません。

結果として、映画世界内の日常に、まるで脈拍が合わさるかのように没入していく感覚を鑑賞者に与える効果が生じることになります。

 

もう一つは「光度」と「闇度」です。

作為的な照明が全く使用されていません。

ほとんど自然光のもとで撮影されているのではないでしょうか。

「ファースト・カウ」における夜間のシーンなどはあまりにも暗いため、俳優たちの表情が闇に溶け込んでしまい、よく判別できないくらいです。

それゆえに、十分な光が得られた場面での事物景物の美しさが逆に際立つことにもなるわけですが、何より鑑賞者が映画世界の中に自然と没入できる効果が、この要素の扱いにおいても、とても大切にされていることが伝わってきます。

 

つまりライカートの映画文体が目指していることは、「鑑賞者」と「映画」、両世界の「共通化」なのです。

カメラの視点はほぼ「地面」、あるいは登場人物たちが「居る場所」の高さから大きく離れることがありません。

いまやドローンを使えば簡単に撮影できる俯瞰の情景がほとんど二作品にはみられません。

登場人物たちが歩き、会話し、休息する、その「息遣い」までもが、鑑賞者にいとも自然に共有されていきます。

わざとらしい感情的な演出や、凝った映像表現、エキセントリックなスタイルを全くとっていないにも関わらず、いつの間にか作品世界に巻き込まれてしまうのです。

自然体のようでいて、実に巧妙に計算された映画術だと感じました。

 

こうしたライカート特有の文体で現された物語は、とても強い自足性をもっています。

従ってあらゆる「説明」的な夾雑物が省かれることになります。

ナレーションやテロップによる補足が当然にないばかりか、シナリオ上、登場人物たちや時代背景が具体的に説明されこともほとんど行われません。

ですから、誰が誰とどういう関係にあるのか、それすら曖昧なまま物語が進行していくようにみえます。

ある意味、鑑賞者を強く信じていないとできない作法です。

ときに観客を置き去りにすることすら厭わないアート系に振り切った作家とライカートの違いはここにあるのではないでしょうか。

じっくり映画の中に身を投じると、説明的なシナリオや描写がなくても、人物たちの相関が自然と把握されてきます。

作品を託された観客は、十分に想像する自由を与えられつつ、作品世界を共有する喜びを得ることができるというわけです。

 

ただ、あまりにもその映画文体が高度に練られているので、次第に「心地よさ」が優勢となりすぎてしまうのかもしれません。

シアター内では時々気持ちよさそうに寝息を立てているお客さんがいました。

私も仮に寝不足状態で食後に観たらどうなっていたか、わかりません。

 

男性同士、女性同士と、違いはありますが、「ファースト・カウ」も「ショーイング・アップ」も、「友情」をテーマの一つとしている作品といえると思います。

この正面から取り上げるには既にあまりにも手垢がつき、恥ずかしいくらい陳腐な主題が、ライカートの手によって、実に味わい深くかつ新鮮な趣をもって描かれていることに驚きます。

汗と涙、絶叫や熱血といった臭みのある成分と全く無縁でありながら、「友情」がこれほど美しく表現された映画というのも珍しいのではないでしょうか。

 

余計な音楽を安直に使わないところも素晴らしいセンスと思います。

ところどころ、ここでピアノの訥々としたフレーズなどをいかにも入れたくなるような抒情的シーンがあったりします。

しかし、安手の日本映画でやってしまいがちな、そうした愚行ををライカートは慎重に回避しています。

他方で、特に「ショーイング・アップ」に顕著なのですが、オープニングとエンドクレジットにたっぷり音楽を用い、時間を割いています。

これはライカートが、おそらく、関係したキャスト&スタッフたちをとてもリスペクトしているからなのでしょうけれど、なにより、この監督がとても幸福に映画制作の現場で仕事をしている証左なのかもしれません。

 

予告編では「ファースト・カウ」を「今年一番の牛映画」と冗談めかして宣伝していました。

それはやはりちょっと違うと思いましたけれど、「ショーイング・アップ」はひょっとすると「今年一番の鳩映画」、といえるかもしれません。

 

さて、これで今年の劇場での映画鑑賞は終わりです。

蛇足ついでに2023年、私的ベスト5は以下の通りです(順不同)。

 

「素敵な歌と舟はゆく」(オタール・イオセリアーニ)

「メーヌ・オセアン」(ジャック・ロジエ)

「キングダム・エクソダス〈脱出〉」(ラース・フォン・トリアー)

「ママと娼婦」(ジャン・ユスターシュ)

「天使の影」(ダニエル・シュミット)

 

今年も素晴らしい作品の数々を上映してくれた各シアターに感謝しています。