ぼくのお日さま|奥山大史

 

東京テアトルの配給で奥山大史(おくやま ひろし 1996-)監督作品「ぼくのお日さま」が9月13日から全国公開されています。
とても丁寧につくられた美しい映画です。
深く感銘を受けました。

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監督奥山大史自身が、脚本に加えて撮影と編集まで手がけています。
リリカルさを全面に押しだした予告編ではあったものの、本編自体は、まだ28歳の監督がその若々しい作家性を強く主張している映画なのだろうと予想していました。

でもこの「ぼくのお日さま」からは、独りよがり風に屈折した難解な語法や自己愛的スタイルは全く感じられません。
淡々と登場人物の表情や事物の情景が自然にとらえられ、明快に紡がれていきます。
しかし一つ一つのシーンは実によく思慮と計算が行き届いた構図をもっていて散漫になることがないのです。

あえてスタンダードサイズで撮影されている作品です。
水平に移動するアクションが連続するスケートがテーマの一つとなっている映画ですから、本来はもっと横幅がとれる画角のサイズで撮影した方が相応しいように思えます。

でも、観ていると次第にこのサイズが最適な画面であると感じられてくるのです。
演者の息遣いがとても近く感じられると同時に、山々などの遠景が肌感覚で実感できます。
加えて、その独特の「空気感」。
映像は常に微細な光の粒子を雪や氷の湿度を伴うように柔らかく纏っています。
高解像度の大画面ではむしろこうした効果は消し飛んでしまうかもしれません。
動きの速いスケートシーンにおいても、対象とカメラは自然にシンクロし、まるでリンクの中に入って光景を眺めているようにも感じられました。

池松壮亮演じるフィギュアスケートのコーチはガラケーを使用していますから、現在よりも少し過去、おそらく00年代中頃が時代として設定されているように思われました。
ひょっとすると奥山監督自身がこの映画の主人公である少年の年齢だった頃の時代が想定されているのかもしれません。

地域は特定されていませんが、小樽、余市あたりを中心としつつ、札幌の真駒内セキスイハイムアイスアリーナなどが登場します。
「北海道のある街」が舞台ということなのでしょう。
いかにも北海道らしいクリシェ的風景が避けられているにも関わらず、雪景色がとても美しく写しとられています。
印象的に登場する「凍った湖上のスケートリンク」は苫小牧にある丹治沼という場所なのだそうです。
なお、この沼を含め、小樽フィルムコミッションが映画のロケ地マップを公開しています。

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越山敬達演じる主人公タクヤは吃音の少年、スケートのコーチ荒川はゲイという設定です。
十分複雑で苦味走った内容が予想されるわけで、実際、映画はとても切ない展開を特にラスト近くで迎えることになります。
ところが、こうした設定がもちがちな教育映画的説教臭さ、社会派映画的重苦しさが「ぼくのお日さま」からはほとんど感じられません。
タクヤが荒川からフィギュアスケートの特訓を受ける場面でも、汗臭いスポコン的描写は全くありません。
ひたすら楽しく、ユーモアも交えながら描かれています。
映画全体を支配している空気は、こちらの気持ちまで柔らかくほぐれてくるように軽妙なのです。

 


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それにしてもタクヤはなぜこんなにも常に屈託がないのでしょうか。
彼を取り巻く環境は、ある意味とても過酷です。
春から秋は少年野球、冬の雪に閉ざされた時季はアイスホッケーを行うことが男子全員にとって当たり前のように考えられている地域。
タクヤはどうみても野球やホッケーが苦手なわけですが、おそらくチームから離脱することはこの土地の少年世界そのものから切り離されてしまうことを意味するのでしょう。
苦手なスポーツと残酷なチームメイトに年中縛られているにも関わらず、それに疑問を抱くこと自体が許されない世界にタクヤは属しているわけです。

しかし彼には潤浩が演じるコウセイという絶妙に愉快な友達がいますから全く孤立しているわけではなくむしろ飄々と日々を送っているようにみえます。
タクヤの父親も吃音であることが描写されています。
おそらくタクヤはこの父が大好きなのでしょう。
吃音は今のタクヤにとって実はそれほど負のコンプレックスとして意識されていないのかもしれません。
中西希亜良演じる少女さくらのスケート姿を見入るタクヤからは、純粋に混じり気なく美しいものを観てしまった少年の喜びが静かに、でも真っ直ぐに伝わってきます。
荒川がタクヤとさくらをアイスダンス競技に誘った理由もその「真っ直ぐさ」にあったことが映画のラスト近くで語られています。

一方で、タクヤよりほんの少し先に思春期の苦さを味わいつつあるさくらは、自分のコーチ荒川がタクヤと親しく接することに嫉妬まじりの複雑な思いを醸成させていくことになります。
若葉竜也が演じる五十嵐と恋人である荒川がいちゃついているところを目撃し、コーチがゲイであることを察したさくらの行動によって三人の関係は一気に「解け」てしまいます。
しかし、荒川と五十嵐が車中でいちゃついている描写は彼らがゲイであることを特に強調してはいません。
よくありがちな男同士のふざけ合いのようにも見えなくもありません。
にも関わらず、思春期の少女がもつ異様なまでに研ぎ澄まされた嗅覚は二人の関係を鋭敏に感じとってしまったのでしょう。
この繊細な嗅覚は、すぐに荒川がタクヤにも同じようなゲイとしての好感をもっているという誤解をも生じさせてしまいます。
さくらと荒川の間に生じた誤解の薄層は息苦しくなるほど切なく三人にとって過酷に機能することになります。

結局、荒川はさくらの母親(山田真帆)からコーチを解任されてしまいます。
でもこの母親は彼がゲイであるということをその理由とはしていないようです。
娘がコーチに対して抱いた嫌悪感を異性愛の範疇で解釈したからこそ「娘に近づかないでほしい」と荒川に告げたのでしょう。
この映画は吃音や同性愛を描いていながら、タクヤや荒川、五十嵐について環境的、社会的にそれを理由として直接攻撃する人物が実は誰も登場しません。
卑近な言い方をすれば「意地悪な大人」はこの映画には一人も存在しないのです。
それだけに、思春期の少女がもつ誰にも非難できない残酷さと、タクヤがもっている、間も無く彼の中からも消え去ってしまうのであろう美しい素直さが際立つことにもなります。
さまざまに解釈の楽しみを与えてくれるラストシーンを含めてとてもよく練られたシナリオと思いました。

ドビュッシーの「月の光」が臆面もなく大々的に使用されているのでちょっと興醒めするかもと危惧していたのですが、監督自身の素直さがそれを上回っていたようです。
そういえば、月光も太陽光の反射と考えれば「お日さま」なのかもしれません。