カウリスマキ「枯れ葉」にみる極上の既視感

 

アキ・カウリスマキ(Aki Kaurismäki 1957-)の最新作「枯れ葉」(Kuolleet Lehdet 2023)が昨年末頃から渋谷のユーロスペース(配給も兼ねています)他、各地のミニシアターを中心に公開されています。

お正月映画として鑑賞してみました。

kareha-movie.com

 

徹頭徹尾、カウリスマキ・スタイルで撮られた映画です。

カウリマスキが監督しているわけですから、当たり前といえば当たり前なのですが、シナリオから演出、撮影、編集、音楽の使い方まで、どこをとっても「カウリスマキ」になっているという意味で、これはもはやある種の「名物」といっても良い作品ではないでしょうか。

この監督が創りあげてきた過去作のイメージまでもが新鮮に浸透してくる、その極上の「既視感」を堪能することになりました。

 

前作「希望のかなた」から6年、「引退宣言」を撤回しての新作です。

希望のかなた」の公開は2017年ですから、当時、監督はちょうど60歳を迎えていた頃にあたります。

この国の「還暦」を意識したわけではないでしょうけれど、心身ともに、とにかく映画人生に一度区切りをつけたかったのかもしれません。

 

でも、表現者としてその創作エネルギーを封じこめておくことはできなかったのでしょう。

本作「枯れ葉」のタイトルは当然に「老い」をイメージさせますが、作品そのものからは、全く映画監督としての老化現象を感じることはできません。

 

また随所に、現在も続くロシアによるウクライナ侵攻に関するラジオニュースの音声が流れます。

カウリスマキが、引退宣言を撤回してまで、今、「枯れ葉」を世に問うことになったきっかけの一つに、この悲惨な戦争があることはどうやら間違いなさそうに思えます。

意図的にロシアによる民間人を巻き込んだ無差別攻撃を報じるニュースが選択されています。

カウリスマキは自身のフィルモグラフィーが、おそらく永く世界的にアーカイブされることを自覚しているでしょうから、映画の中に「記録」された蛮行もそのまま保存されることになります。

何十年、あるいは100年以上経過しても、「カウリスマキの枯れ葉」が上映されるとき、ロシアの罪がそこで語られることになるわけです。

 

ただ、シナリオそのものは「世界平和」というような大言壮語的テーマとはほとんど無関係です。

現代史に残ることなど全くありえない、ごくごく市井の、平凡な男女の小さい物語にすぎません。

 

スーパーマーケットで働く女性アンサ(アルマ・ポウスティ Alma Pöysti 1981-)と、修理工の男ホラッパ(ユッシ・ヴァタネン Jussi Vatanen 1978-)。

このみるからに不遇な中年男女の組み合わせは、「パラダイスの夕暮れ」(1986)以来の「プロレタリアート三部作」がもつ気分をそのまま引き継いでいるかのようです。

ほとんど無表情で淡々と生活している二人からは、かつてカティ・オウティネンやマッティ・ペロンパーが演じた、どこからどうみても冴えない人物としての悲哀と達観が滲み出ていて、類例のない「カウリスマキ的キャラクター」そのものが立ち上がってきます。

寒々しいヘルシンキの空気感や二人が暮らす場所の裏ぶれた雰囲気を含め、この監督独特の世界が、過去作からずっと撮影を担当している盟友ティモ・サルミネンのカメラで再創造されていきます。

カウリスマキは還暦を超えても、いささかも「カウリスマキである」ことを辞めていないのです。

 

 

しかし他方で、どことなくではありますが、この監督なりの「円熟」みたいな要素も感じられます。

テンポ感が以前に比べてむしろ軽快になっています。

例えば、一人トラムの座席に居るアンサの姿をとらえた場面などでは、十分に長く「時間」が意識されているのですが、極端な長回しは避けられていて、彼女の微妙な表情の変化を捉えるのに必要十分なタイミングの範囲にカメラワークが抑えられています。

簡単に言ってしまうと、1カットに費やされる時間の幅が昔の作品より「自然」な範囲に留められているため、かつては時にブツブツ、ゴツゴツしていた映像表現が随分と滑らかに紡がれているように感じられるのです。

ちょっと言い古された表現を使えば、「肩の力が抜けた」感じ、でしょうか。

 

さて、主人公二人は十分に貧しいのですが、特別に「清貧の人」として描かれているわけではありません。

アンサは勤務先スーパーの賞味期限切れ商品を無断で持ち帰ったり、アル中のホラッパは作業中でもウォッカを密かにがぶ飲みしています。

結果、不器用な二人はさらに不遇な境涯に自らをおとしめてしまうことになるわけで、例えば「マッチ工場の少女」における主人公ように、気の毒なくらい外的な要因で不幸になっていくわけではありません。

自業自得、身から出た錆によって悲惨になっていくだけの人たちともいえます。

でも、それだけに、余計、この人たちは強く観客の共感を誘う存在にもなります。

清廉に不幸に貧しい人なんて、実はそれほど世の中にいるわけではありませんから。

マッチ工場の少女 (字幕版)

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偶然出会った孤独で不遇な二人が、たちどころに恋におちながら、再開の機会を絶妙に外していくというストーリー展開です。

仮に典型的な若い美男美女カップルが演じたとしたら、観るに耐えない凡庸な映画になってしまうでしょう。

味わいの塊のような俳優たちの存在によって、ちょっと汚れた生活感をもった人物たちが静かに生き生きと浮かび上がってくるのです。

カウリスマキの語法は相変わらずマジカルです。

 

篠原敏武の唄による「竹田の子守唄」からフィンランドの姉妹デュオ、マウステテュトットまで多彩なヴォーカルによる音楽が散りばめられていて、この監督のユニークな音楽センスにも驚く映画です。

なお、不吉な予言のように時々鳴り響くチャイコフスキーの悲愴交響曲(第4楽章冒頭部分)はムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルによるものです。

 

劇中に二人がデートで観る映画はジム・ジャームッシュのゾンビ作品「デッド・ドント・ダイ」、その映画館にはブレッソンゴダールヴィスコンティ映画のポスターが貼ってあります。

カウリスマキ流の「映画への挨拶」のようにも見受けられます。

今度こそ本当に引退してしまうのではないかと、ちょっと勘繰ってしまいたくなるように可笑しくも美しいオマージュシーンでした。

 

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