弘法筆を選ぶ|狸毛筆奉献表

 

東京国立博物館で開催されている特別展「神護寺空海真言密教のはじまり」。
後期(8月14日〜9月8日)に入り、絵画や文書を中心として作品の入れ替えが行われています。

国宝「狸毛筆奉献表」(りもうひつほうけんひょう)も後期からの展示です。

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ちょっと面白いのは、この国宝の所有者が神護寺ではなく醍醐寺だということでしょう。
現在、大阪中之島美術館では神護寺展と並走するように「醍醐寺国宝展」(8月25日まで)が開催されています。
しかし中之島においてこの文書の展示は前後期を通じ行われていません。
自らが主催した展覧会での出品を見送ってまで、醍醐寺はあえて上野の神護寺展に秘蔵の国宝を提供したことになります。
醍醐寺空海の死後に建立された寺院ですから、生前の空海に所縁の深いこの文書については、彼が活動の拠点とした神護寺に関係した展覧会での公開がふさわしいと判断したのかもしれません。
醍醐寺の大盤振る舞い的鷹揚さに驚く出陳品です。

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空海(774-835)は、入唐していた際に見聞した筆の製法を坂名井清川という職人に伝え、筆を作らせました。
狸毛を用い、楷書用、行書用、草書用、写経用と4種類の筆が制作され、嵯峨天皇(786-842)に奉献されています。
「狸毛筆奉献表」はその筆4本を献上する際に添えられた上表文の「写し」。
縦27.6、横21.1センチ、「伝空海」筆とされる9世紀の文書です。

このテキストには一部欠落があることがわかっています。
4行目と5行目の間、2行41字がデリートされているのです。
切り取らせた人物も判っています。
後水尾天皇(1596-1680)です。
本文の左側に記されている醍醐寺座主義演(1558-1626)の奥書によると、1625(寛永2)年、「狸毛筆奉献表」を見た後水尾院がいたくこの文書を気に入り2行分を切りとって手元におくことになったのだそうです(「京都・醍醐寺展」図録P.230-231)。
帝王だからこそ許される行為で、義演がその経緯を追記したことでさらに文書に「箔がつく」ことになりました。
しかし、後水尾院はやろうと思えば文書を丸ごと献上させることもできたはずです。
そこを2行の切り取りにとどめたということはむしろ座主義演の文書維持に対する執念が勝った結果ということなのかもしれません。

 

狸毛筆奉献表(醍醐寺蔵)

 

欠落が生じてしまったものの、幸いなことに文書の内容自体は空海漢詩文を集めたアンソロジー『性霊集』(巻四)に、後水尾院によって切り取られてしまった部分を含む全文が別途記録されていました。
東博の丸山士郎研究員によるとそこには以下の内容が記されているのだそうです。

「筆には大小、長短、剛柔あるが、文字の筆勢によって選べば良い。筆の毛の選び方や整え方などは坂名井に伝授し終わっている。自分も試してみて唐の筆に遜色ないと思ったが、人により好みがあるので気に入っていただけるか心配である。他の書体などに用いる筆の製法も伝え聞いている。」(神護寺展図録P.230より引用)

空海は、書体に応じてタイプの違った筆を制作した上に、こうした解説書のようなテキストを添えて嵯峨天皇に献上しているわけです。
この宗教者がもっていた極めてプラグマティックな一面を象徴する文章だと思います。
「中国製と遜色ない」と献上品のクオリティを保証しつつも、「好みは人それぞれですから」と天皇のご機嫌を伺っているところなど、現代の社交文書としても十分通用するような気遣いが感じられます。
また、筆は消耗品でもありますから、嵯峨天皇が狸毛筆を気に入ってしまった場合、継続して注文を受ける可能性があります。
空海はその将来的ニーズに対しても「筆職人の坂名井清川に製法を伝授してある」と記し配慮しているように読めます。
さらに「他の書体用の筆も作れますよ」とちゃっかり天皇の関心をひく宣伝文句まで添えられています。
短い文章の中に相手への敬意と実務的なメッセージが凝縮されているわけです。

丸山研究員によると、『性霊集』には当時の皇太子(後の淳和天皇)にも空海は筆を献上したことが記録されていて、その際に添えられた文章には「書の達人は必ず良い筆を選ぶものである」という空海の言葉が記されているそうです(同図録同ページ)。

まさに「弘法筆を選ぶ」です。

ただ、良い筆を使えば良い書が書けるというわけでもないのでしょう。
空海が書体に応じた筆を四管わざわざ制作させたということは、使用する人物がそれぞれの書体、すなわち「スタイル」を会得しているという大前提があります。
空海橘逸勢ともども、後に「三筆」の一人と称賛された嵯峨天皇は、当然に真書、草書、行書といった書体に応じた筆法に通じていたと考えられます。
もともと書に理解がある天皇に贈られる前提あってこその「狸毛筆」だったともいえます。

「弘法筆を選ばず」は、「筆を選んだ」空海自身の態度とはまるで正反対の言い方です。
にも関わらず、この近世に言われるようになったという諺が今でもしばしば用いられているのは、自分の不出来さを道具のせいにする愚かさを戒めるという意味が一義的には大きいからなのでしょう。
ただ、基本的なスタイルや技術を身につけることの重要さもこの言葉が暗示しているとすれば、弘法大師空海は筆に関係なく書体を操りつつ、筆は選んだ、ということなのかもしれません。

さて、真言密教所縁の大展覧会が続いた2024年ですが、来年2025年1月21日からは開創1150年を迎える「大覚寺展」の開催が同じ東博で予定されています。
「狸毛筆奉献表」は空海大覚寺のベースとなった離宮を造営した嵯峨天皇との縁を象徴する文書です。
来春の大覚寺展の隠れた予告編的国宝として神護寺展でじっくり鑑賞しておくのも面白いかもしれません。

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大覚寺 大沢池