アギーレ/神の怒り|ヴェルナー・ヘルツォーク

 

ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog 1942-)監督による映画「アギーレ/神の怒り」(Aguirre, der Zorn Gottes 1972)がアマプラで見放題配信されていたので観てみました(2025年6月現在)。
この作品は、2022年6月、パンドラの配給による特集企画「ヘルツォークは80歳になる」の中の一本としてリマスター版が各地のミニシアターで上映されています。
今回はそのときに観て以来の再鑑賞となりました。

アギーレ/神の怒り(字幕版)

アギーレ/神の怒り(字幕版)

  • クラウス・キンスキー
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異様な傑作です。
この映画は「ドラマ」と「ドキュメンタリー」が表裏一体、あるいは渾然一体となっているという点で、ちょっと類例が思い浮かばないくらい独特の魅力を放つ一作だと思います。

16世紀半ば、スペイン征服後のインカ帝国領内を舞台に実在した人物たちを扱っていますから史実がベースになっている作品といえます。
ただ、全体としてみるとこの映画は紛れもなくフィクションであり、立派な「ドラマ」です。
ところが、有名な冒頭の断崖絶壁における行軍シーンから、ほぼ全編にわたり、写されている人物景物の全てがあまりにも「生(なま)」であることに驚愕し続けるしかない映画なのです。

俳優たちは「演技」を見事に行っています。
しかし、その演技自体によって、彼らが置かれた状況の過酷さが極めてダイレクトに伝達されてくるため、「演技というドキュメント」にもみえてきてしまうのです。
常にたっぷりと湿気を含んだような重苦しく不快な空気。
ぬかるんだ泥地のねっとりと足にまとわりつく感触。
無闇に生命力を誇示する密林の植物たち。
暴力的に混濁した川の奔流。
そうした環境のもつ禍々しさの全てが、映像から俳優たちの身体を通して直感させられます。
「ドラマ」の悲劇性と「ドキュメンタリー」としての現場感がシームレスに混じり合っているのです。
虚と実があまりにも生々しく一体化している映画です。

 


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悲惨さと狂気にみちた映画「アギーレ/神の怒り」の中で、私が特に恐ろしく感じるシーンがあります。
インカの住民だったと思われる男性が笛を吹いているところを、クラウス・キンスキー(Klaus Kinski 1926-1991)演じるアギーレが横からフラフラとしながら眺めるという、一見、なんでもない場面です。
インカの男性は険悪なエルドラド探検隊の雰囲気を和らげるために笛を吹いているのでしょう。
アギーレはそれを別に止めようとはしていません。
しかし、彼が笛吹男性を見る眼差しには明らかに「異質なもの」をみているという、好奇と侮蔑が入り混じった感情がみてとれます。
このシーンの恐ろしさは、「アギーレの眼差し」がそのまま「キンスキーの眼差し」と一体化しているように感じられてくるところにあります。
キンスキーは当然に「演技」をしています。
でも、笛吹男性を横目で眺める彼の眼と表情には、奇怪な異邦人を観察するという、その本心がそのまま現れているとしか言いようのない迫真性がみてとれるのです。
「役者」と「観察者」の視線がキンスキーの中でめまぐるしく混在していく様に戦慄します。
そして笛吹男性自身もおそらくキンスキーの視線から放たれる異様な感情を察しているのでしょう。
お芝居という前提があるのに、笛吹男性の様子は何かに怯えているようにみえてきます。
この映画を特徴づける、「ドラマ」と「ドキュメンタリー」が渾然一体となった瞬間が端的に示されている、非常に恐ろしい場面です。

ヘルツォークは後にドキュメンタリー映画「キンスキー、我が最愛の敵」(Mein Liebster Feind 1999)の中でクラウス・キンスキーとのヒリヒリするような関係性を語っています。
「アギーレ/神の怒り」もキンスキーの傍若無人な振る舞いが現場に混乱をもたらせた作品としてよく知られていますけれど、そうした逸話がどうでもよくなってしまうほど、この映像におけるクラウス・キンスキーの魅力には凄まじいものがあります。

 


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あまりにも「生」っぽく現場が捉えられている一方、この映画は同時に素晴らしく映像美で魅せる作品でもあります。
とてつもなくハードな環境だったことが映像そのものから有無を言わさず伝わってきます。
画面にはときおり雨滴によるとみられるボケたような曇りが確認できるほどですが、ヘルツォークはあえてそうした箇所を修正したり削っていません。
トーマス・マウフ(Thomas Mauch 1937-)による撮影は圧倒的な自然のエネルギーを受け止めつつ、俳優たちの表情を生々しく捕捉し、映像に美観と緊張感を与え続けています。

環境の過酷さを言い訳にして「ドラマ」としての完成度を疎かにしていないところも作品の重大な魅力に繋がっています。
二人のスペイン女性が登場します。
1ヶ月以上、じめじめとした環境にいるという設定にも関わらず、彼女たちの衣装や輿はほとんど汚れません。
レースの首飾りも純白のままです。
ヘルツォークはこういうディテールにおいてはリアリティよりも「ドラマ」としての美しさをきちんと意識しているのです。
エンディングで登場する無数の猿たちは、さらに、ドラマとしてのリアリティを超越し、アギーレという人物そのものの存在とその末路を象徴するモチーフとして描かれたのでしょう。
この猿たちは、後に「ノスフエラトゥ」において、イザベル・アジャーニの足元に広がるネズミの大群につながっていきます。

ところで、フランシス・フォード・コッポラは「地獄の黙示録」について、「アギーレ/神の怒り」から影響を受けたことを述懐していたことがあります。
たまたまでしょうけれど、「地獄の黙示録」は最近「ファイナル・カット」版がリバイバル上映されていて、先日鑑賞したばかりでした。
実際、かなりコッポラがヘルツォークの作品を意識していたことがわかります。
姿を見せない敵からの奇襲、先住民との「小舟」による不幸なランデヴー、「首」の扱いなどなど、直接的に「アギーレ」から引用したのではないかと思われるようなシーンが「地獄の黙示録」には散見されます。
「狂気」を扱っているという点も両作品に大きく共通していたことを再認識しました。

地獄の黙示録」にしても、同じくヘルツォークの「フィツカラルド」にしても、過酷な現場が生々しく想像できる作品ですが、「ドラマ」としての作り込みがやや優勢です。
この「アギーレ/神の怒り」はほぼ全編にわたって「ドラマとドキュメンタリー」が一体化している点で、この二作よりも徹底されているように感じられます。
繰り返しますが、異様な傑作です。

アマプラで配信されている「アギーレ」はおそらく近年リマスターされたバージョンとみられます。
不穏に美しい緑や泥の川、薄汚れた俳優たちの皮膚などが克明に再現されていました。

 

アギーレ/神の怒り Blu-ray

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