「熊は、いない」の虚実反転芸|ジャファル・パナヒ

 

アンプラグドの配給で先月中旬からジャファル・パナヒ(Jafar Panahi 1960-)監督による「熊は、いない」(No Bears  2022)が公開されています。

予告編をみた段階ではちょっと政治色が強そうな、私にとっては硬派すぎる映画かもしれないと想像していたのですが、結果は良い方向に外れてくれました。

実に見事な、娯楽性すら備えた「二重フェイクドキュメンタリー」です。

 

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構造的には、次の二つの要素から成り立っている映画です。

 

A.トルコを舞台に、欧州への脱出を図ろうとしているイラン人カップルの話。

B.上記Aを映画として撮影するため、リモートでイランの村から助監督やカメラマンに指示を出している監督パナヒと村人たちとの交流。

 

長回しによるワンシーンワンカット風の映像から始まるこの映画。

いかにも作家性を重視した苦み走ったドラマが展開しそうな雰囲気を感じさせます。

しかしすぐにその予感は裏切られ、映像は村でのリモート撮影環境に四苦八苦しているパナヒの姿へとトリッキーにシフトしてしまいます。

Aパートのいかにも映画らしく作り込まれたドラマチックな「虚構性」を強調することによって、ドキュメンタリーとしてのBパートの「真実性」がすぐさま観客に伝えられる、印象的なこの冒頭の流れ。

 

しかし、これがパナヒが周到に仕掛けた「虚実反転芸」、その最初の罠であることに気がつく人は、この段階ではほとんどいないでしょう。

 

観客の多くは、ジャファル・パナヒ自身がイラン当局から映画制作を禁止されている身分であることを知りながらこの作品をみています。

結果、パナヒはあえて辺鄙な村に隠れることによって映画の制作を試みているのであろうと推測できますし、トルコでの映画撮影がなぜリモート演出なのか、その事情も容易に了解できます。

つまり、大半の観客が、AがドラマでありBがドキュメンタリーなのだろうと完全に脳内に刷り込まれた状況で、映画が進行していくことになります。

 


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ところが、途中から様相が一変してくるのです。

トルコで演じている俳優たちが、まるで本当に「脱出」を計画しているように場面は急展開を見せはじめ、ドラマがドキュメンタリーの雰囲気をにわかに呈し始めます。

他方、パナヒを取り巻く村人たちの中には、実は胡散臭い存在として「役者然」としている人物が垣間見えてきます。

A(トルコでのドラマ)の虚構性とB(村での出来事)の真実性。

この関係性が一気にぐらついてきます。

どちらがドラマなのかドキュメンタリーなのか。

どこに嘘があり、真実があるのか。

全て本当のことなのか、あるいは全部、フェイクなのか。

軽いめまいすら感じるほどパナヒが仕組んだ虚実反転のテクニックは鮮やかであり、久しぶりに「本当に頭の良い人」による芸術が堪能できました。

 

もちろん、トルコ-イラン国境を巡るきな臭い状況や、因習に凝り固まった村の欺瞞とか、パナヒが問題視するテーマがしっかり描かれてはいるのですが、この映画の本質は、「何が嘘で何が本当なのか」、虚実の境界そのものが見せる裂け目の怖さであり、もっと言ってしまえば、その「面白さ」にあります。

一見、政治色が強そうな作家主義映画とみせかけながら、その実は、極めて入念に幾重にも罠が仕掛けられたダブル・フェイク・ドキュンメタリー映画なのです。

 

そして何より素晴らしいと感じられるのは、監督、パナヒ自身が、おそらくこの「罠」を最高に楽しいものとして観客に提供しようと映画を創っている、その姿勢でしょう。

面白い映画を撮るためなら、自分が置かれている逆境すら利用してしまう。

彼は闘争の人であると同時に、十分、快楽主義的な映画人でもあるのです。

 

また、仮に、この作品が当局から摘発されても、しっかり言い逃れができるように内容が構成されている点も見逃せません。

パナヒはイラン-トルコ国境ギリギリのところまで踏み込んでいくのですが、その「一線」を越えることを断固拒否しています。

また、トルコ経由で逃亡を企てたカップルが迎えるバッドエンドは、ある意味、そうした当局から見た違法行為が「報われない」ことを端的に示しているとも解釈できます。

つまり、映画の中で、パナヒは全く直接的な「体制批判」を行なっていないばかりか、むしろ、「イランに留まる」決意が強烈に表明されているとも受け取れるわけです。

なるほど当局からみると厄介にクレヴァーな人ではあります。

 

「熊」についても、さまざまな解釈ができるようにパナヒは明確な「答え」を描いているわけではありません。

映画の中で、「熊」は村人が使う「方便」のようなものとして語られていますが、それを「体制」の象徴とみるか、単なる「意地悪」とみるか、あるいは「熊は、やはり、いる」と見るか、「やっぱりいないよね」とみるか、感じ方は人それぞれでしょう。

ただ、かなり衝撃的なラストシーンに象徴されるように、熊が「いるのか、いないのか」それを見極めるために、ときには、「断固として止まる」必要性があることはメッセージとして明確に伝わってきました。

 

体制に迎合せず、逮捕されるかもしれないリスクを冒してまで映画制作の手を休めないパナヒという監督。

これだけ聞くと荒々しい反骨の闘士という印象を受けます。

でもこの人は、自身が出演する映画の中で、全くと言って良いほど、声を荒らげることをしません。

不注意な助監督の振る舞いや、村人たちの理不尽な要求に対しても、常に、やわらかく落ち着いた口調と姿勢を崩そうとせず、その視線は冷静さを失わないのです。

本当の意味で「巨大なもの」と戦っている人は、大声で叫んだり、甲高い声で騒ぎ立てることをしないものなのでしょう。

「本物の大人の見本」のような人です。

 


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