「ある画家の数奇な運命」(キノフィルムズ配給)
出演: トム・シリング、セバスチャン・コッホ、パウラ・ベーア、ザスキア・ローゼンタール、オリヴァー・マスッチ 他
撮影: キャレブ・デシャネル
音楽: マックス・リヒター
脚本・監督: フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
2018年(ドイツ) 2020年10月2日日本公開
縦軸と横軸、映画の座標軸が見事に決まっています。
約3時間、冗長さを感じさせません。
縦軸はゲルハルト・リヒターをモデルとしている「ある画家」自身の生きた歴史。
横軸は第二次大戦を挟んだドイツの陰惨な国家犯罪史と、芸術史の移ろい。
虚実ないまぜの体裁で、もちろんこれがリヒターの伝記映画とはいえないわけですが、個人の半生と時代の流れが的確に織りこまれ、芝居巧者が揃っていることもあって、リアルさと高いドラマ性が両立しています。
東京国立近代美術館の常設展(MOMATコレクション)では、4階展示室の約半分を使って、この美術館のハイライト、目玉作品を入れ替えながら展示しています。
今季、偶然でしょうが、ゲルハルト・リヒターの一枚が飾られています。
「シルス・マリア」(Sils Maria)と題された風景画。
スイス、シルス湖に近い山々を写した「フォト・ペインティング」です。
朦朧とした中に不思議な実存感が表出され、絵の中に没入してしまいそうな感覚に襲われます。
この映画では、リヒターと目される画家クルト(トム・シリング)が、まさにフォト・ペインティングの手法を編み出すまでの半生が描かれています。
画家自身の人生である縦軸と、まず悲惨に絡み会う横軸がナチスドイツの優生学。
T4作戦によって幼い時、彼が愛した若き叔母が犠牲になります。
戦後、彼女を安楽死部屋へ送りこんだ産婦人科医の娘と、それとは知らず、クルトは結婚することになってしまう。
さらにこの医師はその自分の娘までT4の思想そのままに扱って平然。画家の人生をも翻弄していきます。
セバスティアン・コッホが演じた医師ゼーバント教授の容赦ない確固とした冷血さが、勧善懲悪的なお馴染みのナチス描写とは全く別の説得力を画面に与えています。
カンディンスキーやモンドリアン等に頽廃芸術の烙印を押したナチスが滅亡した後も、画家の暮らしたドレスデンは東ドイツ政権下。
結局、今度は社会主義リアリズムによって芸術の自由が大幅に制限されることになります。
しかしこの旧東ドイツ芸術史の横軸は、縦軸である画家の個性に、後から見れば、決定的な影響を与えているように思えます。
西側に逃れた後、画家の作風は定まらず、現代アートの嵐の中で方向性を見失ってしまう。
そこに、おそらくヨーゼフ・ボイスをモデルとしている美大教授(オリヴァー・マスッチ)から啓示のような言葉をもらいます。
「脂肪とフェルトが私の故郷だ」と。
大戦中、瀕死の重傷をおったこの美大教授を救ってくれたタタール人たちによる手当て。
動物性の脂を傷に塗り、フェルトの毛布で身体を温めてくれた、本来なら攻撃対象であった人たち。極限の実体験が語られます。
クルトはこの啓示以降、写真を模写した後に朦朧としたフィルターをかけたような独自の絵画技法、フォト・ペインティングを産み出し、脚光を浴びるようになります。
ただ、この啓示によってクルトはデュッセルドルフ風の前衛芸術に向かったわけではありません。
画学生クルトの才能を見抜き、彼に美術の根底にあるものを教えこもうとした、東ドイツにおけるもう一人の美大教授の言葉。
「技術を、技を磨け。私(Ich)、私、私、ではない。」
ピカソを形式主義者として徹底的に否定したこの東独美大教授は一見、単なる過去の権威主義者のように見えます。
しかしクルトが掴んだフォト・ペインティングの芸風は、学生になる前、看板製作で糊口をしのいでいた頃に身に付けた的確な描画テクニックの上に、このドレスデン美大教授による技巧の大切さと勘違いな独我性放棄の教えが反映しているように思えてなりません。
成功をおさめた個展における記者会見シーンで、クルトは、フォト・ペインティングにモデルがいるかと聞かれ、「そんなものはない」と答えます(これは実は嘘ですが)。
「単なる数字が、宝くじの当選番号になった瞬間、意味あるものになる」とクルトは説明します。
誰が撮影したのかわからない、名前のない被写体。
その写真という対象に「私」を委ねる、あるいは「私」を捨て去った後に、技法によって、「技によって」、新しい類例のない芸術が誕生する。
デュッセルドルフで「脂とフェルト」の啓示によって自己の核心に降りて行った画家が、ドレスデンでの「技の追求とIchの放棄」に再会する。縦糸と横糸が織り合わさった瞬間が、アトリエの明暗演出によって手際良く美しく表現されています。
"Werk ohne Autor" - 原題がこの映画の言おうとしていること、そのものを端的に表現しています。
残念なのは、リヒター芸術のその後、つまりあの色彩世界が造られる前に映画が閉じられてしまうことなのですが、そこまで含めたら長尺になりすぎて破綻しそうではあります。
主演のトム・シリングを観るのは二度目です。
『ルートヴィヒ』(2012)でルートヴィヒ二世の気の毒な弟オットー殿下を好演していました。
青年期から中年まで、微妙な年齢の重ね方をよく表現していて、これならリヒターも納得でしょう。
それと前述のコッホ。この人の演技力は凄まじい。
派手な表情付け等は全くないのにゼーバント教授の確信に満ちた真の狂気を内面から滲ませていて、本当に嫌な気分にさせられます。
音楽はマックス・リヒターが担当しています。
マイケル・ナイマンの二番煎じ的な作風に変化はありませんが、画面をしっかり支えるサウンド・トラック。
でもDGから出ていたヴィヴァルディのトランスフォーム音楽レベルには遠く、もうちょっと本気を出してもらいたいところではあります。
ドナースマルクはゲルハルト・リヒターから出された「実名を使わないこと。事実を特定できないように描くこと」という趣旨の条件を呑んでこの作品を撮ったそうです。
残念ながら、その後、リヒター自身はこの映画に関し強烈に批判を加えることになってしまったので、どこかに「許せない」部分があったのかもしれません。
ドキュメンタリーではない、伝記映画でもない、かといって全くのフィクションとも言い切れない。
でも映画自体には確固とした世界観が感じられます。
この監督自身、「私、私、私」の人ではなく「技」の人だと思います。