■2022年6月7日〜10月2日
■東京国立近代美術館
モダン・アート分野におけるおそらく今年最大の注目展、ゲルハルト・リヒター展が東近美で開幕しました(10月15日から豊田市美術館に巡回)。
それなりに多くの観客がいましたけれど、大型作品が多く、比較的ゆったりと展示空間が設けられていることもあってか、混雑でストレスを感じるほどではありません。
約4ヶ月間と長めの会期がとられています。
来場者が分散しやすいので、週末や会期末近くを除けば混雑害は案外避けられそうではあります。
展示品の大半が、ゲルハルト・リヒター財団(Gerhard Richter Art Foundation)とリヒター個人が所蔵する作品によって占められています。
この財団の設立は2019年。
かなり最近のことです。
図録に寄稿しているゲルハルト・リヒター・アーカイヴのディレクター、ディートマー・エルガーによると、財団は以下の効果を狙って、リヒター自身の意向をふまえて組織されたのだそうです。(図録P.6)
「財団に収めることによって、リヒターは作品に対する権利を保持し、市場の誘惑から作品を保護するとともに、公共の美術機関に対しては適切な経費で委託を行なったり特別展に出品したりすることができるのである。」
超高値取引があたり前となってしまったリヒター作品をその喧騒から隔離し、まさに今回の展覧会のように公共のミュージアム等での展覧を容易にするため設立されたということでしょう。
加えて、リヒター自身が自分の作品だけで占められた「リヒター美術館」のような施設を望んでいないという事情も大きいようです。
リヒターは、「私は芸術というオーケストラのなかで演奏するのが好きだ」、「個人美術館のソリストとして登場する必要を全く感じない」と公言(同P.6)しています。
すでにいくつか企てられたというリヒター専用美術館のオルタナティブとして、特定の箱物に固定されることなく、一定のフレキシビリティを確保した財団によるコレクション管理が画家の希望に沿った方式として採用されたようです。
ところで今回の大規模個展と並行して、東近美自身のコレクション展が開催されています。
その中では、寄託されている名品「シルス・マリア」を含めこの美術館所蔵のリヒター作品が数点展示されています。
リヒター特別展に混ぜて展示するのではなく、別個にコレクション展でリヒター作品を展示しているこの有り様こそ、他のアーティスト作品との「共演」を望んでいる作家の意向にむしろ沿っているということになりそうです。
また、偶然だと思いますが、現在、上野の国立西洋美術館で開催されている特別展「自然と人のダイアローグ」では、松方コレクションを代表するモネの「舟遊び」とリヒターの「雲」(フォルクヴァング美術館蔵)がまさに「対話」するように展示されています。
ソロではなく「合奏」したいというリヒターの思いは、本展とは別にちゃんと都内で同時並行的に実現されていることになります。
それはともかく、リヒター作品で埋め尽くされた本展も、とんでもなく圧倒される内容です。
具象に寄った初期のフォト・ペインティングは限定的で、抽象系の作品比率が高いようです。
中でも巨大な「アブストラクト・ペインティング」の一群が特に目立ちます。
「抽象絵画」です。
でも、じっとみていると、そこには何か意味を持ったような形象が浮かんでは消えるような感覚が生じてくるように思えるのです。
森、あるいは木々、竹の節のようなもの、そして、「人の顔」。
一種のパレイドリアといっても良いと思います。
特に叫んでいるような、あるいは不気味な笑みを浮かべているような「顔」に出くわすと、まるで心霊写真で「顔」を見つけときに感じる、あの恐怖を味わうことになります。
しかも、色彩自体は心霊画像のようにぼんやりしたものではなく、強烈です。
リヒター自身があえて「抽象絵画」と題しているわけですから、本来、何もここには具体的なモノ、意味を為す形象は描かれていないはずです。
しかし、本当に画家はまったく意味をなさない絵画を描いているのか、抽象に徹しながら、どこか無意識のうちにある形象を描いてしまっているのではないか。
シュルレアリスムとは違った深層の心象風景が立ち上がっているようにも感じました。
大作「ビルケナウ」は、「抽象絵画」で実行している手法と、「具体的事実描写」が文字通り「重奏」している作品です。
グレーを基調としながら複雑に色彩が絡みつく巨大な4連作の下には、おぞましいビルケナウ収容所で起きた蛮行の記録写真に基づいた下絵的図像が描かれています。
ところが表面にその図像は全く現れていません。
まさに塗り込められていているのです。
下絵図と表面の間に直接的なつながりはなく、その制作経緯を知らなければ、鑑賞者が気がつくことはありません。
しかし、この作品から漂う重苦しさ、そして、「抽象絵画」でみられたパレイドリア的な形象の群れがじんわりと、しかも鋭い圧力としてのしかかってくるような静かな迫力に圧倒されます。
本画と向かい合う形で、これと見紛うほど精巧に複製された「写真バージョン」が展示されています。
鑑賞者は展示室内において、「ビルケナウ」から「挟撃」されることになります。
恐怖の抽象にサンドウィッチされる感覚。
全く逃げ場がない地獄、その「場」が再現されているかのようです。
「ビルケナウ」に囲まれた戦慄の展示空間には、下絵図のもととなった収容所における決定的瞬間を収めた写真が合わせて展示されています(この写真と映像作品のみ写真撮影不可)。
正真正銘の恐怖を感じる、「抽象絵画」でした。