妙心寺 玉鳳院 狩野安信の障壁画と平唐門の美

 

通常時非公開となっている妙心寺の玉鳳院が特別公開されています(2023年1月7日〜3月19日)。

 

玉鳳院は、巨大な法堂や仏殿が連なる妙心寺の中心軸からやや東寄り、塔頭東海庵の奥に位置しています。

この寺を創建した花園法皇(1297-1348)が営んだ離宮萩原殿の土地を継承するという由緒をもち、法皇が帰依した開山、関山慧玄(1277-1361)を祀るなど、広大な寺域を誇る妙心寺内でも特に格式の高い場所とされていて、数多ある他の塔頭とは性質を異にしている寺院。

 

今回特別公開されている部分は方丈(客殿)と開山堂「微笑庵」の内部です。

なお見学受付から奥の境内は庭園等を含めすべて撮影NGとなっています。

 

現在、主に屋根の修復工事が行われている方丈は1656(明暦2)年の建造。

見学時、やや工事作業の音がうるさい時間帯にあたってしまいましたが、江戸時代前期の空間を保ったその室内鑑賞に特段支障があるほどではありませんでした。

 

内奥の中心にある仏間を囲んで「花鳥の間」「龍の間」「山水の間」と大きく3つのブロックがあります。

このうち、「龍の間」と「山水の間」の障壁画を描いたとされているのが、狩野安信(1614-1685)です(「花鳥の間」は狩野益信)。

 

この安信という人は現在でもその評価が微妙な絵師と感じます。

父は狩野孝信(1571-1618 永徳の次男)。

長兄探幽(1602-1674)、次兄尚信(1607-1650)をもち、三兄弟の一番下にあたっていたにもかかわらず、ある意味、成り行き上、狩野宗家を嗣ぐことになった人物。

後の狩野四家の一つ、中橋家の祖にあたります。

 

堂々たる実績を上げていた探幽や、一部からはその探幽以上の才能とも評されていた尚信に対し、安信の評判は、江戸の昔から、いまひとつ、パッとしないところがあります。

確かに二条城や名古屋城知恩院などに傑作を残した探幽や尚信に対し、安信の「代表作」は何か、と問われてもすぐイメージできる作品がありません。

 

またこの絵師は「質画よりも学画が大事」というモットーを主張していた、と伝えられていて、このことが彼の評価をさらに微妙なものにしている面があります。

「才能に任せた絵(質画)も良いが、ちゃんと形式を学んだ絵(学画)の方が重要」ということ。

これが宗家当主のモットーだったとすれば、当然に狩野派一門の絵師たちもそれを尊重することにつながった、といわれることになりました。

結果として、狩野派全体の傾向が、探幽を最後として、才気に欠ける形式的なつまらない画風に落ち着いてしまったのではないかともされるわけです。

 

しかし、見方を変えれば、しっかり形式と技術を磨くことで、狩野派は近世社会の旺盛な絵画需要に応えることができたともいえますから、江戸時代を通じて他の追随を許さなかったこの流派隆盛の基礎を築いた偉人と安信を評価することも、逆に、可能ということになります。

狩野派、その芸風の堕落を招いたのか、組織の繁栄に貢献したのか。

ただ、いずれにせよ、安信一人にその因を帰すること自体がやや乱暴な議論ではあります。

 

さて、玉鳳院の障壁画です。

ポスターにも採用されている「雲龍図」は当たり前ですが「龍の間」を飾っています。

方丈が再建された年、つまり明暦2年頃の時点で狩野安信は40歳代中頃であり、まさに絵師として脂がのってきた時期にあたります。
(ちなみに探幽はこの年50歳代半ば、尚信はすでに世を去っています)

しっかり襖の中に全身が収まった端正ともいえる龍の姿。

取り巻く雲は陰影が丁寧にあらわされ、奥行き感も十分でています。

全体として極めて「普通」に美しい雲龍図。

画面をはみ出す桃山風のデフォルメや、探幽風の格調高さはありません。

しかし、絵師の誠実さそのものが美に直結しているような清々しさが感じられる作品。

他方「山水図」は、余白をバランス良く活かしていて、絵が室内の雰囲気を過度に邪魔しないような配慮がみられます。

確かに天才的な閃きのようなものは感じられませんが、典雅にまとめられた益信の花鳥図とあわせ、玉鳳院という格の高い空間にふさわしい図像が各間を装飾していると感じました。

施主の「ニーズ」にどれだけ応えらたかという点からみると、おそらく安信の筆は十分な満足感を彼らに与えるレベルだったのではないでしょうか。

狩野安信 玉鳳院方丈「雲龍図」(ポスターより)

 

方丈の東隣に建つもう一つの特別内部公開施設、開山堂「微笑庵」(重要文化財)は、もともとこの寺にあった建物ではありません。

応仁文明の乱で花園法皇時代以来の玉鳳院に存した建物は焼け落ちてしまいました。

1537(天文6)年、東福寺山内にあったという堂を買い取って移築した建築物が現在の「微笑庵」です。

乱後の移築再建といっても、様式的には室町時代前期に遡る、市内では非常に貴重な仏殿。

その内部空間も独特の魅力を放っています。

柱が一本もありません。

瓦敷の黒光りする床をはじめ、古典的な禅宗様式が遵守されている建築で、近世様式の和らいだ空間とは明らかに異質な「大陸的」ともいえるような独特の雰囲気を感じました。

 

その開山堂の前門にあたる建築物が平唐門(これも重文)です。

この門が実に素晴らしいのです。

寺の伝えるところによれば、1409(応永16)年、後小松天皇(1377-1433)の御所にあった門を移築したとされています。

開山堂ともども室町前期の遺産ということになります。

 

ただ、史実に照らしてみると、その移築時期については異論もあるようです。

妙心寺は、1399(応永6)年、足利義満によって寺領を取り上げられ、実質的に一時廃絶に追い込まれています。

これは義満と「応永の乱」で争い敗北した大内義弘と当時の妙心寺が近かったため。

応永16年といえば、まだ妙心寺が復活していない時期にあたるので、「後小松天皇御所からの移築」をしようにも、そもそも寺自体がそれどころではなかったのではないか、ということになるようです。

 

それはともかく、平唐門そのものから受ける印象は、明らかに、続く桃山や江戸時代の様式と違っています。

がっしりとしたシンプルな構造なのに、全体的には非常に典雅な雰囲気を感じるのです。

力強さと気品、本来は相反しそうな要素が同居している非常に不可思議かつ魅力的な構築物。

この門は境内の外からも当然に観ることができるのですけれど、今回のように寺の内部、開山堂正面から前庭を隔てて観ると、その格調高い造形センスの美がより一層強く確認できると思います。

初代開山堂は応仁文明の乱で焼けてしまったわけですが、平唐門は奇跡的に類焼を免れ、室町初期の気配を今に伝えてくれています。

 

東福寺月下門とともに、京都市内に残るとっても好きな「門」の一つです。

 

妙心寺 玉鳳院 平唐門(西側から)

 

妙心寺 玉鳳院 平唐門(正面)

 

妙心寺 玉鳳院 平唐門(東側から)

 

妙心寺 玉鳳院 平唐門に残る応仁文明の乱によるとされる傷痕

 

 

(補足)

この寺についてはとにかく時系列と現存物が複雑に前後しているので下記の通り整理しておきます。

 

1342(暦応5/康永元)年 妙心寺創建(開基は花園法皇 開山は関山慧玄)

1399(応永6)年 足利義満による妙心寺廃絶

1409(応永16)年 平唐門が後小松天皇御所から移築される(寺伝)

1432(永享4)年 妙心寺復興

1467(応仁元)年〜1477(文明9)年 応仁文明の乱(玉鳳院のほとんどが焼失・ただ平唐門は残存)

1537(天文6)年 開山堂微笑庵が東福寺内の堂を移築して建造される(東福寺にあった堂自体はこのときより前、15世紀には建造されていたことに注意が必要です)

1656(明暦2)年 方丈(客殿)再建 狩野安信・益信による障壁画制作

 

以上です。

ああ、ややこしい。