狩野甚之丞 二条城 勅使の間の「野村楓」

 

令和5年度夏期 勅使を迎える青楓 ~〈遠侍〉勅使の間

■2023年7月13日〜9月10日
■二条城障壁画 展示資料館

 

二条城展示資料館、今年の夏はややマイナーな一室、「勅使の間」を飾る障壁画が紹介されています。

狩野探幽による大広間障壁画等の格調高さとは一味違った、独特の典雅が示されていて楽しめました。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

 

「遠侍」は二条城二の丸御殿の中で、車寄から入った見学者が一番最初に立ち入る部分です。

御殿内で最大の規模を誇るこのエリアは、なんといっても、「一の間」から「三の間」を飾る虎の図で有名なのですが、北東のコーナーに配置された「勅使の間」は、それとは全く異なるモチーフで彩られています。

 

勅使が背にする「大床」と、帳台襖に描かれている植物は「青楓」です。

でも、よく見ると妙な配色で描かれていることに気がつきます。

葉の外側が紅く、付け根側が緑になっているのです。

これは、ノムラカエデという品種だそうです。

ときどき、春なのに真っ赤に色付いているモミジを観ることがありますが、それがこの樹木です。

www.bg.s.u-tokyo.ac.jp

 

春に紅く染まった野村楓は、夏にかけて緑色に変化し、また秋に紅くなって落葉します。

「勅使の間」に描かれている葉は、枯れていく情景ではなく、逆に、春から夏に向かう途中、つまり野村楓がだんだん紅色を追い出し緑色を深くしていくプロセスを克明に示していることになります。

季節としては初夏あたりが選ばれているということなのでしょう。

 

この珍しい楓は、江戸時代から知られている品種なのだそうです。

二条城障壁画群が描かれたのは江戸時代の初期です。

ということは、「勅使の間」には、当時最先端の珍種植物が描かれているということになります。

春でも秋でもなく初夏。

そして、その季節感を珍奇な新種の楓で表現している「勅使の間」。

考えてみると実に不思議な空間といえるかもしれません。

 

 

「一の間」から「三の間」の「竹虎図」とともに、「勅使の間」の障壁画を担当した絵師は狩野甚之丞(甚丞 1583-1628)とされています。

かつては狩野長信(1577-1654)が描いたのではないかという説(山根有三)が引き合いに出されることが多かったようですが、現在、二条城展示資料館による解説では甚之丞筆とほぼ特定しています。

 

狩野甚之丞は、狩野宗秀(1551-1601)の実子ですから、永徳(1543-1590)の甥、光信(1565-1608)の従兄弟にあたる人物です。

参考までに、寛永元年から三年(1624〜1626)にかけて行われた二条城障壁画の制作に参加した狩野派絵師たちの中で、血のつながりがある者を生年順に並べると以下の通りです。

 

長信(1577-1654):狩野松栄の三男(つまり永徳の弟)

甚之丞(1583-1628)

秀信(1588-1672):狩野秀頼(元信の子・松栄の兄弟・つまり永徳の叔父)の流れ

探幽(1602-1674):狩野孝信(永徳の子・光信の弟)の長男

尚信(1607-1650):同次男

安信(1614-1685):同三男

 

次代の狩野派を牽引する探幽はまだ20歳代になったばかりであり、尚信や安信にいたっては10代の少年です。

彼らに対して甚之丞は40歳代に入っており、障壁画作成時点においては経験と実力、その両面で、絵師としておそらく最も充実した時期を迎えていたとみられます。

年齢の序列からみても長信に次ぐ第二位にありますから、当時の狩野一族において、相当に重きをなしていた人物といえるでしょう。

 

しかし、そんな彼に割り当てられた「遠侍」は、二の丸御殿の中で格式の点でみると一番低いエリアなのです。

他方、より高い格式を持つ「大広間」や「黒書院」は、宗家筋に近い若年の探幽や尚信が、山楽をはじめとする京狩野や他のベテラン絵師たちのサポートを受けてはいるものの、ほぼ仕切っています。

 

「遠侍」の一部に含まれているとはいえ、「勅使の間」は格式の点では書院や大広間に負けてはいませんから、この措置は甚之丞に一定の配慮がなされているとも解釈できます。

しかし、徳川家主役の御殿の中でこの一室がマイナーな空間であることに変わりはありません。

年齢実力ともに高位にあった甚之丞としては、メインホールを担当した探幽兄弟に対しちょっと複雑な思いを抱いていたのではないかと勝手に妄想したくもなってきます。

 

そこで、選ばれたモチーフが「野村楓」、だったのではないでしょうか。

「遠侍」は、昇殿者である武士たちの待機場所という機能をもっていますから、主要なエリアである「一の間」から「三の間」には、まるで彼らに睨みをきかせるかのように、甚之丞は「虎」を描いています。

一方、朝廷からの使者を迎える「勅使の間」に獰猛な野獣を描くわけにはいきません。

かといって、書院や大広間を荘厳する「松」は徳川将軍の威光を象徴するものとして探幽たちに使われてしまっていますからこれもモチーフにはなりえません。

無難な花鳥画や山水で「勅使の間」を仕上げることもできたはずです。

しかし、実力者であり当時の狩野一族No.2のシニアである甚之丞は、一般的な花鳥画等でここを仕上げることを良しとしなかったとは推測できないでしょうか。

光信流の典雅なスタイルを活かしながら、画題としては、当時の新品種である「野村楓」を採用し、「松」の探幽一派に一矢報いるという、絵師甚之丞の意地のようなものが伝わってくるようです。

 

狩野甚之丞は障壁画が完成した約2年後には亡くなってしまいますから、現存する彼の作品としては「勅使の間」障壁画が最晩年の遺作ということになります。

子息も早世してしまい、結局甚之丞の流れは彼で途絶えてしまいました。

その後、名実ともに狩野派の総帥となった探幽のスタイルに流派全体が一新されてしまい、桃山の名残を残す光信流の画風は消滅します。

そう考えると甚之丞こそ、狩野山楽と並び「最後の桃山絵師」だったといえるかもしれません。

 

狩野甚之丞 二条城二の丸御殿「勅使の間」障壁画(部分)