狩野益信 の「龍」|泉屋博古館「歌と物語の絵」展

 

企画展 歌と物語の絵 -雅やかなやまと絵の世界

■2023年6月10日〜7月17日
泉屋博古館

 

住友家伝来の日本絵画コレクションから、和歌と物語文学をテーマに作品を選りすぐった企画展です。

この美術館の名物「是害坊絵巻」をはじめ、竹取、伊勢、源氏、平家と、お馴染みの主題による華やかな絵巻や屏風絵などが陳列される中、ちょっと異彩を放っていた一幅に惹かれました。

企画展 歌と物語の絵 -雅やかなやまと絵の世界 | 展覧会 | 泉屋博古館 <京都・鹿ヶ谷>

 

狩野益信(1625-1694)が描いた「玉取図」です。

 

絵の最上部には舟に乗る貴人と家来たち。

下からは不穏な海流を従えた龍が迫っています。

画面中央にあたる海中では、その龍に短剣で応戦しようとしている女性が描かれています。

女性の腰には赤い紐のようなものが結ばれていて、これは波上の舟から引き上げてもらうための命綱のようです。

 

几帳面な益信らしく、上・中・下と明確に整理された構図ですが、全体的に、なにやらただならぬ緊迫した状況がみてとれます。

 

狩野益信「玉取図」(上部分・泉屋博古館蔵)

 

この絵画に描かれている場面は、幸若舞の「大織冠」からとられています。

大織冠(たいしょっかん)とは、すなわち、藤原鎌足のことです。

この藤原氏の始祖と海底の龍王が、仏法の効力をもつ宝玉を奪い合うという、かなり奇想天外なお話。

現在ではさほどメジャーな物語ではありませんが、室町時代末期から江戸時代前期頃までにかけ、とても人気があったという幻想譚です。

よく似た筋書をもった作品に能の演目「海人」があることでも知られています。

 

唐帝国から贈られたありがたい宝珠を龍王に奪われてしまった鎌足は、その奪還のために出向いた讃岐国で、ある海女と結ばれ男児をもうけました。

身分の違いを自覚していた海女は、鎌足の願いに応える代わりに息子の将来を保障してもらおうと、龍王から宝珠を取り返すことを決意。

海中に潜り竜宮に向かうことになりました。

なんとか宝玉の奪還に成功した海女ですが、龍に見つかってしまい猛烈な追跡を受けることになります。

 

益信の「玉取図」に描かれているのは、この場面です。

海女を救出しようと、鎌を片手に身を乗り出し、船上でバタついている人物が藤原鎌足

それに対し、命綱を引いて懸命に海女を引き上げようとしている家来たちの表情は硬く冷静です。

海女は奪還した宝珠を海面の方向に捧げつつ、龍に剣を向けていますが、その横顔にはどこか達観したような風情が漂います。

 

狩野益信「玉取図」(中央部分・泉屋博古館蔵)

 

「大織冠」の物語では、この後、悲惨なことが起こります。

結局、海女は龍に追いつかれて足を食いちぎられ、絶命してしまいました。

ところが、命綱で引き上げられた海女の身体からお宝の玉が出現。

覚悟を決めた海女が、乳房を切り、胸の中に玉を隠していたのです。

その真心にうたれた鎌足は、海女が産んだ男児を彼女の願い通り藤原氏嫡流とし、この子が後に摂関家の源流である「藤原北家」の祖、つまり藤原房前になる、というオチがついています。

本来、鎌足の後は不比等で、その息子が房前ですから、話がおかしいのですが、そこはつっこまないお約束になっているようです。

(なお、能の「海女」では、鎌足不比等に変更されていますから、一応、系譜に配慮はしています。)

 

海女の壮絶な最期を想像すると、この「玉取図」はとても恐ろしい内容の絵画ということになります。

しかし、当然、掛軸の主題はそこではなく、藤原北家が栄えたように、この絵が飾られる家も子孫が代々繁栄するようにとの願いが込められた、一種の「吉祥画」とみるべきなのでしょう。

 

泉屋博古館が所蔵する作品の多くが十五代住友吉左衛門友純、春翠の収集によるものです。

しかしこの微妙に濃厚な「玉取図」は、典雅洒脱を好んだ春翠の趣味とはちょっと違うようにも思えます。

春翠以前、近世の住友家にもともと伝わっていた一幅なのかもしれません。

「玉取図」のお話は、四国、讃岐国にある名刹志度寺の縁起につながっています。

住友家が経営した別子銅山は、讃岐のすぐ隣、伊予国にありました。

讃岐から来た客人をもてなすための画として飾られた可能性もあるのかもしれません。

ただ、図録解説等では由来が確認できませんでしたので、これはあくまでも私の妄想ではあります。

 

妄想は引き続きどんどん膨らんでいきます。

 

狩野益信は、どんな心情でこの絵を描いていたのでしょうか。

もちろん、誰かの注文によって描いてはいるわけですが、この絵師の数奇な生涯を考えると、「玉取図」は違った表情をみせはじめるようにも思えるのです。

 

益信は、狩野家の血をひいていない人です。

もとは京都で金工の名手として一家を成していた後藤家の出身です。

なかなか世継ぎに恵まれなかった狩野探幽(1602-1674)が、益信の画才を認めて養子とし、狩野家に入ることになりました。

ところが、50歳を過ぎた探幽に実子ができてしまったことから、探幽の系統である鍛冶橋狩野家を嗣ぐことができず、別家をたてざるをえなくなります。

これが後の駿河台狩野家です。

昔はよくある話だったのでしょうけれど、益信にとってみれば、まさに「ハシゴをはずされた」わけです。

一門の大実力者であった探幽に表立って楯突くことができない中、内心、忸怩たる思いが燻っていたのではないかと、想像されます。

 

狩野益信「玉取図」(下部分・泉屋博古館蔵)

 

一方、益信と親しい関係を築いたとされるのが、探幽の末弟、宗家筋である中橋狩野家の祖となった安信(1614-1685)です。

実際、この二人は妙心寺玉鳳院方丈障壁画で共演するなど、実績の面でもその親密ぶりが確認できます。

 

この安信も兄探幽には複雑な感情をもっていたのではないかと考えています。

実力面では明らかに探幽に劣りながらも、絵師の一大集団、狩野派の宗家を、成り行き上とはいえ、嗣ぐ立場になってしまったわけですから、当然に少なからずコンプレックスを抱いていたと推測できます。

つまり、益信も安信も「探幽」という巨大な存在に脅かされていたという点で共通していたのであり、それが二人を接近させていたのかもしれません。

 

こういう背景を考えながら「玉取図」をみると、画面の下、執拗に繰り返されるグロテスクな波頭表現の中から現れる「龍」は、益信にとって「探幽」そのものなのではないか、とみえてくるのです。

 

「玉取図」は、子孫反映を祈念した吉祥の図と考えられます。

それは、自己犠牲を捧げた海女の息子が鎌足の嫡子として認められるという物語の内容に拠っています。

つまり、「世継ぎ」というテーマが「玉取図」には濃厚に示唆されていることになります。

一旦、大絵師の一族、狩野探幽家の世継ぎとして招かれたにも関わらず、探幽側の身勝手な都合でそれを反故にされた益信からみると、海女がとった決死の行動に強く心動かされるものがあったのではないでしょうか。

凶暴な龍を前に、臆することなく清らかな表情で向かい合う海女の姿にその心境が現れているように感じます。

そして益信は、自分を「嫡流」から排斥する養父探幽をドス黒い海流に囲まれた龍王として描いた、あるいは、そこまでストレートではないにせよ、そうした心情が、益信にしてはやや表現主義的な図像を無意識のうちに創出させてしまっているようにも思えるのです。

 

とすると、海女のもつ「剣」も別の意味をもってきます。

前述の通り、益信の生家は金工の名家、後藤家です。

当然、刀剣も身近な存在だったはずです。

出自である「後藤」の剣で、「探幽」の龍に立ち向かう。

益信の中にあった探幽コンプレックスが、実は、「玉取図」の一種異様な迫力を生み出しているのではないか。

こんな妄想をしてみた次第です。

 

益信が祖となった駿河台狩野家は、その後、幕府の表絵師として着実に実績を上げ、一時は探幽の鍛冶橋狩野家を凌ぐほどの仕事をこなしていくことになります。

「玉取図」に隠された益信の心情は、ある意味、ちゃんと吉祥となって結果を出したのかもしれません。

 

狩野益信「玉取図」(泉屋博古館蔵)