大徳寺 「唐門・三門・勅使門」特別公開

 

大徳寺本坊の一部が特別公開されたのでお邪魔してみました(期間は2023年4月27日〜6月4日)。

 

prtimes.jp

 

大徳寺の中心伽藍にある建物群は、方丈等を除き、外側からであればいつでも観ることができます。

今回、「特別公開」とされているのは、三門の一階部分(くぐるだけ)、仏殿と法堂の内部、そして唐門(南面)、ということになります。

 

特別公開の企画・運営は京都春秋(株)が担当しています。

2000円と高めの料金ですが、ガイド付きミニツアー方式で約40分、たっぷり非公開エリアを堪能できますから、妥当な範囲での価格設定かとは思います。

時間を区切り、約20名程度を定員として案内されます。

受付を済ませれば行列する必要はありませんが、タイミングによってはかなり待たされることになるようです(事前予約はできません)。

平日の夕方近いコマであれば比較的待たずにゆったりと鑑賞できるかもしれません(実際、私がそうでした)。

 

 

大徳寺本坊には三つの門があります。

重要文化財の「勅使門」、「三門(金毛閣)」、そして国宝の「唐門」です。

 

それぞれスタイルが全く異なる上に、その来歴も極めてユニークです。

これだけ多彩で見応えのある「門」を連続して鑑賞できる寺院はそれほど多くはありません。

 

 

中心伽藍の最も南側に位置しているのが、「勅使門」です。

この建物はほぼ全景をいつでも観ることができます。

今回の公開では、普段は観ることができない、三門の中、つまり北側正面からじっくり全体像を確認することができました。

 

檜皮葺、切妻造の向唐門式で仕上げられた四脚門。

朱塗りが鮮やかな三門とは対照的な、その重厚な趣が印象的です。

蟇股のあたりには非常に装飾的な唐草などの透かし彫りがほどこされています。

しかし、ほとんど「絵画的」ともいえる国宝の唐門と比較すると、「勅使門」の装飾はあくまでも門を荘厳する付随的デザインとして節度が守られているように感じられます。

 

大徳寺 勅使門

 

「勅使門」はもともとここにあった建造物ではありません。

1640(寛永17)年、明正天皇によって当時の御所にあった南門(陽明門)が大徳寺に下賜されたと伝えられています。

建造自体は当然にそれ以前、慶長年間頃と推定されるそうです。

三つの門の中では最も歴史が浅く、一番地味でもあるのですが、近世初期の宮殿関係建築としての価値を併せ持つ非常に貴重な遺構でもあります。

 

「勅使門」はその名がもつ機能を現在でも頑なに維持しています。

すなわち、皇室からの使者が通る場合以外、開けられることはありません。

勅使門と三門を結ぶ前庭のような空間には玉砂利が敷かれていますが、ここも一般人は立ち入ることができないそうで、見学者は玉砂利空間の左右に敷設されたごく狭い石の造道上を慎重に歩いて通らなければなりません。

なお、前回、この勅使門が開けられたのは、大正天皇行幸の際だそうです。

100年近く「開かずの門」となっているわけです。

 

大徳寺 三門

 

勅使門のすぐ北側に建つ「三門」も普段は扉が閉められています。

しかしこちらは、通行が皇室関係者に限定されているわけではないので、ときどき今回のように開扉されます。

 

一階部分と二階の建造時期が異なることで知られる楼閣です。

1526(大永6)年、連歌師宗長の寄進によって一階部分の建造が開始されますが、資金難のため途中で断念。

一旦板葺きの屋根がつけられた一層の門として使用されていたようです。

 

その約60年後、千利休により1589(天正17)年、二階部分が建造されました。

かなり時間が経過してからの増築です。

当然に施行を担った大工たちも異なっていました。

一階は「宗」という名の大徳寺専任大工が、二階は尼崎から来た大工集団によって建造されたことが解体修理によって確認されています。

なお、印象的な扁額「金毛閣」は、松花堂昭乗が、張即之の書を参考につつ揮毫したものだそうです。

 

今回の「三門」公開は一階部分、つまり門を「くぐる」というところまでです。

二階は非公開。

ここには長谷川等伯による龍の図が天井に描かれていて、ほとんど公開されることがないためか、非常に状態良く図像が残っているのだそうです。

三門の北にある「仏殿」に描かれた狩野元信筆とされる天井画がかなり剥落、損傷してしまっているのとは対照的です。

 

大徳寺 仏殿内部(外側から撮影)

 

この「三門」二階に、寄進への礼として千利休像が設置されたことから、豊臣秀吉が怒り、利休が切腹に追い込まれたとされる有名なエピソードがあります。

現在安置されている利休像はその因縁めいた像ではなく、二代目にあたるのだそうです。

 

でも、この話、本当にその理由だけで切腹させられたのか、異論はあるようです。

 

私も、この件については妄想まじりの疑問をもっています。

彼に死を与えるほどの怒りを秀吉が利休像にもったのであれば、忌々しいこの「三門」そのものを取り壊し、別に作り変えるくらいのことをしたのではないか。

秀吉ならやりかねないし、実際にそれが出来た天下人です。

 

2階部分を寄進した当人が利休なわけですから、利休像だけでなく、それが置かれた建物自体も秀吉にとってみれば憎悪の対象になったはずです。

でも、「三門」は利休が増築した通りに残っています。

今、仮に秀吉がここを通るとすれば、像と本人を排除していても、「利休に見下ろされる」効果はそのままと感じるのではないでしょうか。

利休の木像を主因として秀吉が本当に彼を憎んだとすれば、「三門」もそのままにしておくはずがありません。

 

そもそも利休像を制作したのは利休本人というより大徳寺側です。

秀吉に無礼を働いたというのであれば、大徳寺自身が処罰の対象に加えられても不思議ではありません。

しかし、そうはならず、「三門」も無傷のままなのです。

 

利休像云々のエピソードは別の真相を隠す口実とする説に、この門を実際にくぐってみると、説得力を感じます。

秀吉にとってみれば、利休彫像も大徳寺三門も、実は、さほど重要な存在ではなかったのでしょう。

 

大徳寺 三門(背後に勅使門の扉)

 

さて、「三門」の後、仏殿、法堂の内部見学と進み(仏殿内部の入場が許可されたのは今回が初めてなのだそうです)、最後に現れる最大の見どころが、「唐門」です。

 

西本願寺、豊国神社のそれとともに京に残る桃山の三大唐門(いずれも国宝)として知られる傑作。

前二者は無料でいつでも観ることができますが、この門だけは通常非公開となっています。

今回の公開では、隣接する方丈が修復工事に入っているため、やや全体の景観鑑賞には難があったものの、門の直下まで近接することができ、華麗な桃山装飾の細部をじっくり確認することができました。

なお、「唐門」のみ、撮影OKとなっています。

 

大徳寺 唐門

 

謎めいた来歴をもった門です。

聚楽第にあったものを移築したという伝説的な由来で知られる建築物。

いまだに確たる証拠はないとみられますが、かといって聚楽第遺構説を完全に否定することもできないようです。

越後村上藩初代藩主となった大名、村上頼勝(義明)が、大徳寺大慈院に「玄関と蒲菊門」を寄進したという記録が『大慈過去帳』に残っていて、この蒲菊門こそ、頼勝が聚楽第から下げ渡されたと伝わる「唐門」に相当するのではないかと推定されています。

 

「唐門」も当初から今の位置にあったわけではありません。

もとは現在「勅使門」が建っているあたりの西側に東面して設置されていたのだそうです。

その以前建っていた場所が、村上頼勝寄進とされる門の位置関係と近似していることから「蒲菊門=唐門」という推論が成立しています。

 

現在の位置に「唐門」が移築されたのは明治の中頃と、意外に最近のことです。

その前、ここには別の門が建っていました。

それが今は南禅寺金地院にある「明智門」です。

金地院が、それまであった「唐門」を豊国神社に移されることになったため、大徳寺方丈前にあった「明智門」を譲り受けたという経緯にあります。

 

その、現在、豊国神社「唐門」とされる門(つまりこれも桃山三大唐門の一つ)は、もともと、伏見城にあったという伝説をもっています。

 

明治京都における桃山門の流転。

ややこしい話でした。

 

金地院 明智

豊国神社 唐門