橋本関雪 生誕140周年 KANSETSU ー入神の技・非凡の画ー
■福田美術館・嵯峨嵐山文華館
■2023年4月19日〜7月3日
嵐山の2館と、銀閣寺道の白沙村荘を舞台に、橋本関雪(1883~1945)の大回顧展が開催されています。
いよいよアフターコロナの観光公害がひどくなってきたので、嵐山は避けていましたが、梅雨時に入り、そろそろ大丈夫かもと想定し、重い腰を上げ鑑賞に至った次第です。
渡月橋周辺は海外客と修学旅行生等で相変わらずドタバタしてはいましたけれど、彼らとは無縁の美術館内はむしろとても落ち着いていて、快適に過ごすことができました(平日)。
橋本関雪は「京都画壇で活躍した人」と呼ばれます。
実際、京都でその生涯の最も多い時間を過ごし、銀閣寺の横に今や観光名所にもなってしまった大邸宅「白沙村荘」を建て、旺盛に画業を遂行した画家ですから、この説明に何の違和感もありません。
文展、帝展などで華麗な実績をあげ、帝室技芸員にもなっています。
誰がどうみても京都画壇の巨匠です。
しかし、私の個人的印象になってはしまうのですが、では、「京都画壇を代表する大家」といえるのか、というと、どうもそうは思えないのです。
理由はいくつかあります。
まず、そのあまりにも極端な中国趣味です。
福田美術館では、今回、「美人観桜図」という和風の美人屏風絵が展示されています。
その解説板に「関雪にしては珍しい」とコメントされているように、この人は京都画壇に典型的な花鳥風月や美人画にほとんど興味を示さず、題材の多くを、大陸の故事や景物人物からとっています。
といって、たとえば富岡鉄斎のようにガチに文人を貫いた人でもありません。
もちろん南画、文人画風の作品もたくさん描いてはいますが、関雪は、四条派の技法を存分に駆使した画家でもあります。
テクニックはしっかり京都画壇伝統の流れを受け継いでいるのです。
だから余計、題材のチャイナテイストが際立つのでしょう。
もちろん、中国古典を題材にした作品は他の日本画家も多く手がけてはいますが、関雪ほど特化している例は珍しいのではないでしょうか。
橋本関雪は竹内栖鳳に弟子入りしていますから、一応、円山・四条派の伝統はこの偉大な師匠から習得したことになります。
しかし、後に栖鳳の門人会である「竹杖会」から離脱しているように、このまさに京都画壇を代表する巨匠と、最終的には明確に決別しています。
「竹杖会」は栖鳳の画塾とはいえ、当然、強制力をもった制度的組織ではありません。
多少、師匠や他の門人たちと意見が合わなくなっても、のらりくらりと、適当につきあっていれば表面上、格好はついたはずです。
にも関わらず、関雪は意図的に、まるで波風を立てるように、わざわざ「脱会」しているわけです。
当然、「栖鳳系」の流れ、つまり京都画壇における主流の一派から離脱してしまうことになりました。
では、画壇の主流派とは違う、別のトレンドであった、土田麦僊や村上華岳等が起こした「国画創作協会」のような反文展系の一派に接近したかといえば、関雪の場合、そういうこともないわけです。
大正期のデカダン官能系、耽美系の作品を関雪の中に見出すことはできません。
この人は首尾一貫して、積極的に官展へ関与し続けた、いわば保守本流を志向した画家でもあります。
つまり、橋本関雪という画家は、画風と活躍場所は京都にバッチリ依拠しているのですが、題材と流派においては、結局どこにも属さない「アウトサイダー」という印象になってしまうのです。
さらに、白沙村荘の他にも豪邸を複数所有するといった俗っぽさや、かなりストレートに戦争への協力姿勢を出してしまっていたことも、この画家への評価を難しくしてしまっているように感じます。
京都画壇全体からみたらアウトサイダーであっても、この人は「孤高の芸術家」的なイメージとはほど遠い、むしろ十分名声を博した剛腕ともいえる大画家でした。
以上のような理由から、橋本関雪は、京都画壇を代表する大家、というより「鬼っ子」的存在であり続けたように、個人的には、感じてしまうのです。
では、この人の、その独特の「自信」はどこからきているのでしょうか。
今回、その秘密の一端を知ることができたように思います。
嵯峨嵐山文華館の方に展示されている、「前田又吉追善茶会画巻」がそれです。
1901(明治34)年、まだ関雪が18歳だった頃に描かれた絵巻。
京都ホテルや神戸花隈の開発で知られる実業家、前田又吉(1830-1893)の追善供養の場を、当時加古川あたりに住んでいたとみられる関雪が写生した作品です。
すでに驚異的なテクニシャンであったことが鮮明につわたってきます。
関雪は、栖鳳の弟子となる前、四条派で南画を得意としていたという画家、片岡公曠に入門しています。
この絵巻もまだ片岡門下にいた頃の作品なのでしょう。
しかし、ここには南画風のスタイルというよりも、むしろ整理の行き届いた写実画といった趣を感じます。
微細に写しとられた調度類や立花、定規で測られたように組み上げられた室内の様子などからは、すでに「古典」的といっても良い美観が確認できます。
関雪は、推測ですが、二人の師匠、片岡公曠と竹内栖鳳から、実は「学ぶものなどない」くらいの実力をとても若い頃から密かに自認していたような気がします。
だから結局、栖鳳門人として終わることも良しとはしなかったのでしょう。
天性の画人だった、という他はありません。
今回の回顧展で、あらためてちょっとびっくりしたのが、関雪の絵がもつ、モダンさです。
展覧会のアートワークには、彼の代表作の一つである「木蘭」が使用されています。
いままで気がつかなかったのですけれど、こうして屏風の中から木蘭だけが切り取られて意匠化されると、とてもその現代的なセンスが浮き立ってきます。
すっきりした造形美と、品格。
実は、この画風は、京都にくる以前、18歳の時に描いた「前田又吉追善茶会画巻」で、すでにある程度確立されていたのではないでしょうか。
関雪の父、橋本海関は高明な儒学者であり、当然に中国古典に精通していました。
父から直接薫陶を受けた中国古典の世界は、関雪の中に強固な根をはり、揺るぎない彼の「基底」となったと思われます。
天賦の才としての技巧と、中国古典という明確な基盤。
この二要素ががっちりと組み合わさった結果、橋本関雪という画家独特の「自信」を生み出したのでしょう。
京都画壇伝統の技法は、あくまでも彼にとって、画才の幅ともいえる「葉脈」を広げるものではあったものの、「根」にはならなかったようです。
関雪による、迷いのない画の数々が、嵐山で堪能できました。