生誕140年 橋本関雪 KANSETSU ー入神の技・非凡の画ー
■2023年4月19日〜7月3日
■白沙村荘 橋本関雪記念館
現在、京都市内、三つの会場で展開されている橋本関雪の大回顧展。
嵐山の福田美術館&嵯峨嵐山文華館での共催展を鑑賞後、もう一つの会場である東山、銀閣寺道の白沙村荘を訪れてみました。
今回の企画では、期間中、嵐山と東山で作品を繰り回しているので、若干の違いはあるものの、前期でも後期でも、全会場を巡るとほぼ彼の主要作を鑑賞することができます。
関雪を扱う場合、避けて通れないテーマとして、アジア太平洋戦争との関わりがあります。
白沙村荘は、かつて関雪のアトリエ兼住居だったところであり、現在もその維持保存は橋本家によってなされています。
画家の親族という立場を想像すれば、おそらくあまり触れられたくない部分が、このテーマということになるのでしょうけれども、今回の回顧展では、しっかり、彼の戦争関連絵画における代表作が避けられることなく、関雪記念館内で堂々と展示されていました。
その代表作とは、非常によく知られた戦争画、「十二月八日の黄浦江上(こうほこうじょう)」です。
1943(昭和18)年12月8日から翌年の2月9日にかけて東京都美術館で開催された「第二回大東亜戦争美術展」に出品された関雪晩年の大作。
1941年12月8日、真珠湾攻撃の当日、日本軍によって行われた上海共同租界占領の一場面を描いた、れっきとした「戦争記録画」です。
この作品は、所蔵(正確には米国からの無期限貸与品)している東京国立近代美術館が、比較的頻繁に常設展(MOMATコレクション)で展示していることもあって、あらためて観るまでもない、見慣れた絵画と認識していました。
ところが今回、関雪記念館の中で鑑賞してみて、今までとはやや違った印象を受けたのです。
東近美が「十二月八日の黄浦江上」を展示する場合、たいてい、他に描かれた戦争画とあわせて紹介されます。
いわゆる「戦争画コレクション」中の一作品という文脈で鑑賞される機会が大半だと思います。
藤田嗣治の悲壮に過剰な玉砕絵や、それとは対照的な鶴田吾郎によるやや能天気なパラシュート部隊を描いた洋画などに囲まれた中で、この関雪作品を観ると、いかにも禍々しい戦争絵画という印象をどうしても受けてしまいます。
でも、こうして橋本関雪という画家のみを回顧した企画展の中で観てみると、いつもとは違った表情が作品から立ち上ってくるように感じられたのです。
この絵画最大の特徴は、まるで水墨画のような、極めて抑制されたその色調表現にあります。
開戦当日における夜の上海、黄浦江を描いているわけですから、太陽光はないはずであり色味としてこうなることは当然といえば当然ともいえます。
しかし、ではなぜ関雪は、得意の洗練された彩色テクニックを放棄してまで、この戦闘場面を描くことにしたのでしょうか。
それには大きく二つの理由があるように妄想しています。
一つは、彼にとって、大東亜戦争は、アメリカとの「太平洋」を挟んだ戦争ではなく、まず「中国本土」における戦争であったのだろうということ、です。
直接的な戦争場面を題材とする場合、中国文化と深いつながりをもっていた関雪にとって、その舞台を大陸以外に想定することは難しかったと思われます。
一方で、自らが愛し、数十回とその地を踏んだ中国の人物景物が自国に攻撃される場面を描くということは、画家個人にとって耐え難い内容ではなかったか、とも想像されます。
つまり、日本画家関雪に要請された「彩管報国」は、極めてアンビバレントな状態を彼の中につくりだしていたのではないかと思えるのです。
この三面からなる作品の、一番右の面に描かれている上海租界の光景には、中国的な建物が一切描かれていません。
全て西洋建築です。
また、中央面で日本海軍の攻撃を受けて炎上している「ペテレル」はイギリス軍、降伏し拿捕を待っている「ウェーク」はアメリカの戦艦です。
つまり、この記念すべき戦勝シーンにおいて、関雪は中国伝統の景物を全く描いていないのです。
「中国本土」を舞台としながらも、「中国の文物民衆を攻撃していない戦闘場面」という、かなりアクロバティックな条件を満たすテーマとして、関雪にとって、うってつけだった事件が、黄浦江における米英艦攻撃作戦だったのではないでしょうか。
だから、あえて色彩による支援を放棄してまで、この題材が選択されたのではないかと考えています。
もちろん、ここには米英を中国から追い払うという、極めて身勝手にこの国が掲げていた大義名分が反映されているのであり、関雪が個人的信条のみから、題材を選定しているわけではないことにも留意は必要です。
さて、関雪が夜の上海を作品の舞台として選んだ二つ目の理由です。
それは、関雪がこの作品において、かつての師匠、竹内栖鳳をかなり意識していたのではないか、ということです。
栖鳳が残した傑作の一つに、髙島屋史料館が所蔵している「ベニスの月」(1904)があります。
夜景に浮かぶヴェネツィアの風景が、水墨の濃淡のみで描かれた大作です。
高島屋が当時売り出していた「ビロード友禅」の下絵として制作された「世界三景」の一枚で、残る二作は山元春挙と都路華香が手がけていました。
当時から相当評判になった名品であり、当然、関雪も認識していたと思われます。
栖鳳による「ベニスの月」は、全体に霧がかかったような朦朧とした空気感がとても印象的な作品です。
あらためて、関雪が描いた上海租界の夜景をみてみると、その雰囲気がよく似ているのではないかと思えてきたのです。
「十二月八日の黄浦江上」は、もちろん画家がその戦闘現場を実際に観て描いたものではありません。
関雪は、この作品を描くために現地へ足を運び、租界の西洋建築群をスケッチとして写しとるなど、リアリティを追求してはいます。
しかし、それだけではなく、絶妙に「湿度」を感じさせるような濃淡表現と、すぐれて奥行きが表現されたその立体的な描写が本作を特徴づけてもいます。
そこに、栖鳳の「ベニスの月」が遠く響きあっているように感じられないでしょうか。
戦艦炎上シーンを描いた左および中央の二面と、租界風景が表された右面は、繋がっているようにみえて、実は微妙にずれた位置関係にあります。
関雪は、この右面のみ、戦闘シーンとはある意味関係なく、まるで栖鳳に挑むように、夜霧に浮かぶ西洋建築という「ベニスの月」と同じような題材を絵画にしようとしていたのではないか。
そんな印象を今回の展示で受けています。
左と中央の二画をあえて連続させるように工夫された、「探照灯(サーチライト)」の異様に強烈な表現にまず目が向いてしまう作品です。
でも、関雪が本当に描こうとした風景は、サーチライトの鋭い光線がその輪郭像を失いつつも光源として機能し、闇夜に浮かび上がらせた「上海」そのものだったのではないでしょうか。
戦艦たちの姿よりも、「ベニスの月」に対応した、「上海の探照灯」が、実はこの絵画の主題なのかもしれません。
ただ、仮にそうだったとしても、関雪が大戦に消極的だった、ということを言いたいわけではありません。
もし心底、中国大陸の平和を望んでいたのであれば、そこに被害をもたらす自国の戦争に画家としてこんな大作をもって協力するはずが、そもそも、ないわけですから。
非常に複雑な画家です。
橋本関雪は、敗戦の年、1945年2月に狭心症の発作を起こし急逝してしまいます。
結果として、おそらく屈託なく戦争に同意していたとみられるこの大画家は、戦後、藤田嗣治が浴びた強烈な非難を受けるようなことはなく、横山大観のように苦しく開き直るような態度を強いられることもありませんでした。
ただ、藤田の戦争画が昨今再評価されているのに対し、「無言」のまま世を去ってしまったことが、橋本関雪という画家の立ち位置をいつまでも微妙なものにしているのではないか、と思うこともあります。
今回の極めて充実した生誕140年記念展でも、そうした関雪の曖昧さが完全に払拭されたとはいえない印象が残りました。
次回、生誕150年の時点ではどういう再評価がなされるのか、楽しみではあります。