栖鳳の「雀」と「柳」|京都市京セラ美術館の竹内栖鳳展

 

京都市美術館開館90周年記念展 竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー

■2023年10月7日〜12月3日
京都市京セラ美術館

 

1933(昭和8)年に開館した京都市美術館が、その90周年を祝う企画として、近代京都画壇最大の巨匠、竹内栖鳳(1864-1942)を特集しています。

 

kyotocity-kyocera.museum

 

約130点あまりの作品が紹介される大規模展です。

ただし、前期(10月7日〜11月5日)と後期(11月7日〜12月3日)で代表作を含む展示品の入れ替えがありますから、お目当ての作品がある場合は鑑賞タイミングを見計らう必要があります。

 

例えば、この画家のアイコン的作品の一つともいえる「アレ夕立に」や、水墨表現で西洋の風景に挑んだ大傑作「ベニスの月」(いずれも髙島屋史料館蔵)は前期までの展示。

他方、京都市美が誇る重要文化財「絵になる最初」は後期になってから登場します。

加えてややこしいのは、後期の中でもさらに展示期間が限定されている作品がいくつかあることで、藤田美術館の名宝「大獅子図」は11月14日からのお出まし。

また、海の見える杜美術館が所蔵する大作「羅馬之図」は11月21日からと、会期末近くになってようやく広島からやってきます。

(なお作品の写真撮影は全面的にNGです)

 

京都市美術館は、2013年、東京国立近代美術館と共に大規模な特別展「竹内栖鳳展-近代日本画の巨人」を開催しています。

同じ美術館が、同一画家の大回顧展を開くにしては、この前回展からのスパンがちょっと短いような気もします。

ただ、竹内栖鳳は、京都市美術館の設立自体に大きく関わった偉人でもありますから、このミュージアムが、2020年の大規模リニューアル後に迎えた今回のアニバーサリー企画においても、スコープをあてるにふさわしい画家として選定されたということなのでしょう。

 

初期から晩年、小型の写生帖から巨大な金屏風絵まで、画家の全貌を明らかにする意図が十分感じられる意欲展です。

ただ、栖鳳筆によるもう一枚の重要文化財であり代表作である「斑猫」(山種美術館蔵)は、残念ながら、今回、欠席しています。

 

これはおそらく展示期間制約の問題など実務的な背景によるものと思われますが、ちょっと洒落た理由を考えることもできます。

本展には実に様々な、栖鳳が描いた「雀」が登場しています。

雀にとって猫は脅威でしょう。

安心して小鳥が絵の中で遊べるように、広尾の猫にはご遠慮いただいた、ということなのかもしれません。

 

写生を重要視した竹内栖鳳にとって、身近な存在である雀は格好のモデルでした。

初期から晩年まで、この小鳥を連綿と好んでモチーフにしています。

 

今回、中でも印象深かった作品があります。

最晩年、1940(昭和15)年に描かれた「喜雀」です。

artsandculture.google.com

 

この六曲一双の大金屏風は、現在、町立湯河原美術館の所蔵品となっています。

もともとはかつて湯河原にあった名温泉旅館「天野屋」が所有していた作品です。

 

肺に持病を抱えていた栖鳳は、晩年、天野屋の敷地内に別荘「山桃庵」を設け、毎年逗留していました。

「喜雀」はその天野屋の主人による依頼に応えて制作されたもので、まさに雀だけが28羽、金地の大画面に大きく余白を残しながら飛び跳ねています。

ほとんど実物大ではないかとみられる雀たちは実に多様な角度からとらえられ、栖鳳の眼と筆、それ自体の動きが伝わってくるようです。

背景に何も描かれていないこともあって、まるで浮き出てそのまま飛んでいってしまいそうなリアル性を感じさせます。

京都市美の後藤結美子学芸係長が執筆した図録の解説(P.205)によると、依頼主である天野屋の主人は「雀ばかりで愛想がない」と実に率直な感想を画家に伝えたのだそうです。

これに対して栖鳳は、「金を拾うめでたい雀だ」と微笑ましく応戦しています。

 

ただ、残念ながら天野屋旅館は2005年、経営に行き詰まって閉館し、夏目漱石も逗留した名建築として有名だった本館も取り壊されて現存していません。

栖鳳がせっかく描いてくれた「喜雀」の「拾った金」程度ではどうしようもなかったのかもしれません。

 

竹内栖鳳は、1942(昭和17)年8月23日早朝、肺炎により、ここ、湯河原、天野屋旅館において79歳で没しています。

 

www.town.yugawara.kanagawa.jp

 

さて「喜雀」とともに今回、特に味わい深いと感じた作品があります。

「蕭条」と題された六曲一双の屏風(京都国立近代美術館蔵)。

左右に大きく描かれた古い柳の木とそれにとまる小鳥があらわされています。

 

これも図録の解説(P.198)によれば、栖鳳は「鴨川や堀川べりの寒月の風情に画意を得」て筆をとったのだそうです。

1904(明治27)年頃に描かれた本作は、「幸野楳嶺没後10周年追悼展」に出品されています。

幸野楳嶺(1844-1895)は、周知の通り、竹内栖鳳の才能を大きく開花させた近代京都画壇の巨人であり、非常に優れた教育者でもあった人物です。

「蕭条」は恩師の追悼展にふさわしい、幻想的な静謐感が画面全体から漂う傑作と感じます。

 

竹内栖鳳「蕭条」(京都国立近代美術館での展示時に撮影)

竹内栖鳳「蕭条」(京都国立近代美術館での展示時に撮影)

 

「蕭条」の、葉を落とした柳の寂寞とした姿をあらためて観て、ちょっと思い出した作品がありました。

栖鳳が1934(昭和9)年、東本願寺の「大寝殿(おおしんでん)」上段の間に描いた障壁画「古柳眠鷺」です(本展には出品されていません・また大寝殿は通常時非公開です)。

「蕭条」と同じく、冬景色の中に老いた柳が描かれ、こちらにも鳥の姿がみられます。

彩色を抑制し余白を活かした画風を含めて、「蕭条」と「古柳眠鷺」には共通した趣が感じられるのです。

 

両作品の間には30年もの隔たりがあります。

なのになぜこうも雰囲気が似通っているのでしょうか。

2作品の間に「幸野楳嶺」を結節点としておくと、その理由がぼんやりとみえてくるように思えるのです。

 

1864(元治元)年に起きた「禁門の変」で全焼してしまった東本願寺は、再建した巨大な御影堂の内部を荘厳する大障壁画を幸野楳嶺に発注しています。

この頃すでに体調を崩しがちだった晩年の楳嶺をサポートするため、多くの弟子達が障壁画制作に参加しているのですが、その中には竹内栖鳳も当然に含まれていました。

つまり東本願寺は、恩師楳嶺との最後の仕事を栖鳳が行った、思い出の場所でもあるのです。

その大寝殿に描く障壁画に、楳嶺没後10年時に描いた「老柳」のモチーフを、まるで思い出したかのように、ふたたび用いたのではないか、そんな妄想が浮かんできたという次第です。

 

竹内栖鳳「古柳眠鷺」(部分・本展には出品されていません)

 

東本願寺寝殿の障壁画「古柳眠鷺」の隣には、実は「雀」も描かれています。

歓喜」と題されたこの作品は、まさに湯河原の「喜雀」を想起させるような愛らしい雅趣に富んでいて「柳」の寂寥感とは対照的です。

 

ただ、この「歓喜」、画面の中央に不自然な補修がみられるのです。

これはなんと雀が2羽、削り取られてしまった、その痕跡です。

あまりにも栖鳳の写生術が美しいため、何者かによって剥ぎ取られてしまったと推定されています。

 

猫に食べられたわけではありません。

 

竹内栖鳳「斑猫」(山種美術館で撮影・本展には出品されていません)