「キングダム・エクソダス〈脱出〉」(L.v.トリアー) 備忘録

 

シンカの配給で7月上旬からスタートした「ラース・フォン・トリアー レトロスペクティブ2023」が盛況のうちに終わり、かわって、ついに彼の最新作「キングダム・エクソダス〈脱出〉」( Riget  Exodus 2022) が公開されました(2023年7月28日から順次全国展開)。

TV配信用の5話をまとめて一気に上映。

約5時間半かかりました。

途中、3話(エピソード11)と4話(エピソード12)の間に10分間の休憩が設定されています。

 

映画『キングダム エクソダス<脱出>』公式サイト

www.youtube.com

 

ラース・フォン・トリアー(Lars von Trier 1956-)の作品には、必ずと言って良いほど、二つの特異な要素がみられます。

 

一つは「自縛」、もう一つは「靴の中の小石」です。

 

トリアーは、常に何らかの「制約」で自作を縛りあげます。

わかりやすい例でいえば、「ドックヴィル」(Dogville 2003)と「マンダレイ」(Manderlay 2005)の2作にみられる、一切のロケを排して簡素な室内のみを舞台とする手法があげられますけれど、最も極端にそれが示されている映画は、なんといっても「ドグマ95」による強烈な縛りをかけた「イディオッツ」(Idioterne 1998)でしょう。

まず、きっちりとある種の「ドグマ」、制約を前提にしないと映画を撮れないのではないかと思えるくらい、自らを縛りあげるスタイルにこだわりを見せる人です。

 

今回の「エクソダス」にも、当然、強い「自縛」要素があります。

その自らにかけた制約とは、他ならない、シリーズの前作、つまり「キングダム1&2」(Riget 1994,Riget II 1997)、そのものです。

エクソダス」は、驚くべきことに、「キングダム1&2」の「完全な続編」として、笑えてしまうくらいラディカルに制作されているのです。

90年代の自作自体に、トリアーは、今、「縛られる」快楽を得ているようです。

 

前シリーズの放映からすでに四半世紀以上が経過しています。

主要キャストの中には亡くなってしまった俳優も多いわけですから、2世代くらい一気に若返らせた配役に一新してしまっても文句は出ないでしょう。

トリアーが本作に関してインスピレーションを受けたというデイヴィッド・リンチの「ツインピークス」を思い返すと、ドラマ後に公開された映画版では、テレビ放映からさほど時間が経っていないにも関わらず、かなりスタイルが変化していました。

「キングダム1&2」の完結編は、TVドラマという枠組みに拘束されることなく、全く新しい違ったスタイルを採用することも十分ありえたはずです。

 

ところが、「エクソダス」では、冒頭の「漂白池」のシーンからテーマ音楽、クレジットのデザイン、そして「最後に登場するトリアー」まで、形式的には、前作シリーズとほとんど変わらないのです。

エクソダス」最初のエピソードは、8回続いた前シリーズの最終話を受け、「エピソード9」として始まります。

前作を特徴づけていたザラついたセピア色による映像統一感もそのままです。

主役級の二人は、今回も老女と初老の医師ですから、キャストが変わっているものの、役柄の枠組み自体は見事に維持されています。

つまり、トリアーは、「エクソダス」について、「キングダム1&2」のスタイルを可能な限り徹底的に遵守して適用しているのです。

ここまで徹底されると、これはもう様式というより、「自縛」です。

 

しかし、この強烈な自縛スタイルは、鑑賞者を、四半世紀の時を超えて、一気にまた「キングダム」の世界に引き戻すという、圧倒的効果を生じさせもします。

何度も繰り返し体験することになる冒頭シーンとナレーション。

劇場で連続鑑賞していると、さらに、その脈拍を弛緩させていくような中毒性が増幅されるようにも感じました。

 


www.youtube.com

 

さて、もう一つのトリアー映画における重要な要素、「靴の中の小石」についても、枚挙にいとまが無いくらい、「エクソダス」の中に仕込まれています。

このトリアー独特の言い回しは、彼の長編第2作目「エピデミック」(Epidemic 1987)の中で、本人役で登場しているトリアー自身によって語られる次のセリフからとられています。

 

「映画は靴の中に入った小石でありたいものだね」。

 

口の中に入った髪の毛ほどには不快ではないでしょうけれど、靴に混入した小石もそこそこに厄介です。

トリアーはそんな小石のような映画をつくりたいと言っているわけですから、鑑賞者側も、人によっては、相応の不快感を覚悟しなければならないことになります。

 

エクソダス」にもたくさん「小石」がみつかります。

「彼」や「彼女」ではなく「人間」といえ、というヘルマーJr医師の言動には、行きすぎた男女平等意識への痛烈な皮肉が込められています。

前作において、ダウン症の男女を院内の食器洗浄係として登場させたトリアーは、今回、ウェルナー症候群を発症しているとみられる男性とロボットを同役で登場させ、「早すぎる老い」と「老いない機械」という、これも救いようのない対比を見せつけてきます。

いつまで経っても組み立てられないイケアの家具などに代表される「砂つぶ程度の石」から、靴の中にあったら相当な苦痛を覚えそうな「刺々しい石」まで、トリアーによる「靴の中の小石」は「エクソダス」の中に多種多様に何個も搭載されていて、最終的には靴の中が石ころだらけになってしまうかもしれません。

 

ところで、トリアーはなぜ今になって「キングダム」の完結編を撮ろうと考えたのでしょうか。

それには、前シリーズで実質的な主役だった、エルンスト・フーゴ・イエアゴー(Ernst-Hugo Järegård 1928-1998)演じる「ヘルマー医師」の存在が大きく影響しているように想像しています。

 

前シリーズの最後、ヘルマーの医療ミスによって脳に障害を得てしまったモナという少女が、ある謎めいたワードを残します。

「ヘルマーは・・」で終わってしまうその言葉の意味が「エクソダス」の最後に、強烈な事実として明らかにされることになります。

 

イエアゴーが怪演した前作のヘルマーは、ことあるごとにデンマーク人を馬鹿にするというとんでもないキャラクターのスウェーデン人という設定でした。

エクソダス」で登場する彼の息子、ヘルマーJr医師(ミカエル・パーシュブラント Mikael Persbrandt 1963-)も父に劣らず、強烈なスウェーデン至上主義者として描かれていて、「デンマークvsスウェーデン」の要素は、前シリーズよりもさらに濃厚に描かれています。

 

「キングダム」は、とても複雑にエピソードが連ねられているようでいて、実は、お話の筋は大きく「二本」に集約されてしまうドラマです。

一本は、忌まわしいキングダム病院に巣食う「悪魔と霊」のお話。

もう一本は、スティーグ・ヘルマーという人物と彼にまとわりつく医師たちの物語です。

 

悪魔や霊が登場するだけのホラー作品ならば、前作までの段階で終わっていても、それはそれで「怪奇の余情」として済ませることができたかもしれません。

しかし、もう一筋の重要なテーマである、ヘルマーの正体だけは「未完」では格好がつきません。

モナの残した言葉の完成形が今回、明示されるのですが、それこそトリアーが「キングダム」で表現したかったとみられる最大級の皮肉的悲喜劇の根幹であり、「ヘルマーは・・」という言葉が完成しないと、実は、このドラマ「キングダム」全体が完成しないのです。

 

「ヘルマーの正体」こそ、トリアー自身の中に四半世紀以上も残っていた「靴の中の小石」だったのでしょう。

エクソダス」〈脱出〉によって、ようやく彼は「小石」から解放されたようです。

 

www.youtube.com

 

ドルッセ夫人に代わり、今回「悪魔と霊」の物語としての「キングダム」を牽引するカレン・スヴェンソン役は、「イディオッツ」に登場していたボデイル・ヨルゲンセン(Bodil Jørgensen 1961-)です。

「イディオッツ」での役名「カレン」をそのまま引き継ぎ、30年後の彼女が「偽知的障害者」から「夢遊病患者」として「キングダム」に登場するという、これもかなりスパイスの効いた配役が組まれています。

その他、「メランコリア」で執拗に画面に被せたヴァーグナー「トリタンとイゾルデ」前奏曲や、「ニンフォマニアック」で犯罪的といっても良いほどに悪用したバッハの「オルゲルビュヒライン」をチラリとBGMに使うなど、過去作からの冗談めいた引用が散見されます。

特別出演的に登場しているウィレム・デフォーも、「アンチクライスト」の後、結局「魅入られてしまった」男と想定すると、今回の唐突な役柄も納得できるかもしれません。

あくまでもテレビドラマですから、お得意の過激な性表現などは控えられていますが、ある種の「集大成」感が漂ってくる作品です。

 

それにしても、このシリーズで、覚えてしまった唯一のスウェーデン語が、"Danskjävlar!"というのは、困ったものです。

 

www.youtube.com