マーメイドフィルムの主催、コピアポア・フィルムの配給で、『ロバート・アルトマン傑作選』(3作品)が各地のミニシアターで上映されました。
「雨にぬれた舗道」(That Cold Day in the Park 1969)は、本邦劇場公開済みですが、国内ではソフト化も配信もされていない作品だそうです。
観てみました。
初見です。
「M★A★S★H マッシュ」よりも前に公開された、ロバート・アルトマン(Robert Altman 1925-2006)の初期に属する作品です。
一応、サスペンスあるいはスリラーにカテゴライズされるようで、確かに物語の決着だけみると、その通りの映画ともいえます。
しかし、全体としては、なんともいえない、ジャンル分けを拒否するような不可思議さが漂っていて、観終わった後に、ジワジワと憂鬱な暗い感情が湧き出してくるような作品と感じました。
特に、物語の中ではほとんど説明されていないのですが、地味に恐ろしいある「装置」の存在に気がつくと、下手なサイコスリラー劇よりも遥かに恐ろしい気分に襲われることになると思います。
舞台はカナダ、バンクーバーです。
真冬というわけではないようですが、陽光が差し込む場面はほとんどなく、終始、陰鬱に湿った寒々しい空気が画面に映し出されています。
今回のレトロスペクティヴにあわせて特にリストアなどはされていないので、音響を含め、鮮明度の点でやや物足りなさを感じますが、撮影に起用されたラズロ・コヴァックスによるカメラワークの素晴らしさは十分、確認できると思います。
サンディ・デニス演じる主人公の女性、フランシス・オースティンは、ほとんど笑顔を見せることがありません。
終始、不機嫌、というよりも感情を極端に押し殺しているような風情を漂わせています。
豪華な高層アパートに暮らしてはいるものの、仕事はどうやらしておらず、遺産で暮らしているような御身分とみられます。
冒頭から、この女性の奇妙な振る舞いがあらわになっていきます。
彼女は、居宅から眺めることができる公園のベンチに座っていた見ず知らずの青年(マイケル・バーンズ)を、雨に濡れていて気の毒だからという理由だけで、何の躊躇いもなく部屋に招き入れます。
普通の人はやらないことです。
他方、この青年もおかしく、風呂や食事まで提供されながら、一言も女性と会話を交わすことがありません。
おかしな人たち同士の、おかしな共同生活が続いていき、結局、物語はフランシスの破滅的な行動で唐突に終わります。
登場人物たちに対し、感情移入することがとても難しい映画と、最初は感じます。
しかし、途中から、この映画が仕組んでいるある「装置」に気がつくと、途端に、主人公フランシスがもつ真の恐ろしさがヒタヒタと迫ってくるのです。
フランシスが青年を招きいれた居宅。
いくつもの部屋があります。
その中の一室、「客間」に、その「装置」があります。
この部屋は鍵をかけられるようになっています。
普通の居室であれば、鍵がかけられたとしても、内側から解錠できるようになっているわけですが、この「客間」はそうなってはいません。
昔ながらのドアには一般的な鍵のスタイルなのかもしれませんが、使い様によっては、一種の「監禁装置」にもなりえるわけです。
ただこの部屋には窓があり、そこから非常階段を使えば出入りすることができます。
実際、ドアに鍵がかかっていても、青年は窓を使って自在に外界と客間を行き来し、ときには彼の姉までそこから闖入したりしますから、実は完全な監禁装置として機能しているわけではありません。
フランシスが、映画の終盤、その窓まで釘で打ちつけて閉鎖するまで、彼は完全に監禁されているわけではないのです。
ウィリアム・ワイラーの「コレクター」における性を逆転させた監禁もの映画、と表面的にはみえるかもしれません。
しかし、この映画の本当の恐ろしさは、実は、青年を監禁する女性の狂気、ではなくて、この部屋がもつ「鍵」という装置の存在自体にあります。
つまり、ひょっとすると、フランシス自身も、かつてこの部屋で監禁されていたのではないか、と想像させるところにあるのです。
フランシスは今は亡き「母親」のことについてさりげなく独白しています。
年老いた母親のことを「自我を喪失していた」と語る彼女は、決して母に対し、良い思い出をもっているようにはみえません。
むしろ、憎悪の対象ではなかったのかとすら感じられます。
なぜなのでしょうか。
フランシス自身が、幼い頃から、「内側から開けられない部屋」の中に、つまり母親によって、躾の名の下、実質「監禁」されていたのではないかと想像すると、辻褄が合うのです。
映画の中では、このような説明は一切ありません。
しかし、物置でも倉庫でもない、「内側から開けられない鍵のついた部屋」が、次第にその存在感を増していきます。
この「雨にぬれた舗道」に描かれたフランシスの居宅には、その「鍵」が一部屋だけではなく、玄関の扉にも仕掛けられています。
一見、普通の居宅です。
でも、一旦、主人に「鍵」を支配されてしまうと、同居人にとってはとんでもなく恐ろしい空間に変貌してしまうのです。
そうした「監禁」が常態化したような家で育ったフランシスという女性であれば、冒頭から彼女が行う、全くの他人である若い男を突然招き入れるという、非常識な行動も納得できるものになってきます。
また、「客間」には、なぜか人形やぬいぐるみが置かれていたりします。
ここは、かつて、フランシス自身がいた「子ども部屋」であった可能性が示唆されているのです。
フランシスが、子供時代に自分が監禁されていた部屋に、若い男を監禁していると読み解くことができるとすれば、子供じみたように「言葉を発しない」青年の存在をいとも簡単に受け入れていることにも説明がつきます。
若い男との性交渉を覚悟したフランシスですが、一方で、避妊リングを躊躇なく仕込むなど、「母親」になることは徹底的に拒絶しているようにもみえます。
自分がされたことを子供にしないための戒めとしていたのかもしれません。
そして、さらに別の恐ろしい想像をすることもできます。
幼いフランシスが監禁されたかもしれない鍵付きの部屋。
それは、ひょっとすると、年老いた「母親」を、今度はフランシスが監禁する装置として活用されたかもしれないのです。
「自我を失った」とフランシスは晩年の母親を回顧しています。
自分をかつて監禁した母親を、今度は、徘徊を防ぐ目的の名の下に監禁する。
もっと妄想するならば、ひょっとするとフランシスという女性は、家政婦たちの目を盗みながら、母親を閉じ込めることで彼女を衰弱死に追い込むなど、直接的な復讐を果たしていたのかもしれません。
繰り返しますが、アルトマンはフランシスの過去や母親のことを映像の中で具体的に説明してはいません。
「中から開けられない部屋」と、その「鍵」を支配するフランシスの姿が描かれているだけです。
でも、この、ちょっと考えたら、明らかに異様な「装置」の存在に気がついてしまうと、もう、恐ろしくでたまらなくなってくるのです。
内側から開けることができない鍵つきの部屋。
表面的な監禁劇としてではなく、その真の意味が、この映画における恐怖の通奏低音、なのではないでしょうか。
鑑賞後に、どんどん怖くなってくる映画です。
ということは、やっぱりしっかり「スリラー」にカテゴライズされて然るべき作品、なのかもしれません。