生誕130年 没後60年を越えて「須田国太郎の芸術―三つのまなざし―」
■2024年3月2日〜4月21日
■西宮市大谷記念美術館
昨年の秋、碧南市藤井達吉現代美術館からスタートした須田国太郎(1891-1961)の回顧展が香櫨園に巡回してきました。
規模としては2012年に京都市美術館他で開催された没後50年展以来の本格的な企画です。
やや閑散(平日鑑賞)としていたことが残念なくらい、須田芸術を多面的に捉えた非常に充実した内容の特別展と感じました。
「きょうと視覚文化振興財団」が共催として各巡回展をサポートしています。
この公益財団法人は、その名称から一見いかにも自治体の外郭団体のような印象を受けますけれども、実態は府とも市とも関係のない極めて個人的なつながりから発足した組織です。
きょうと視覚文化振興財団は須田国太郎の長男である須田寛氏が父の遺産活用について原田平作(1933-2023)阪大名誉教授に相談をもちかけたことを契機として、彼の呼びかけに応えた有志たちが中心となり2019年に設立されました。
原田平作は昨年の9月に90歳で亡くなっています。
彼が監修者に名を連ねたこの巡回展が、藤井達吉現代美術館で始まった去年10月には既に世を去っていたことになります。
遅まきながらご冥福をお祈りいたします。
本展の図録には原田による「須田国太郎と私」という巻頭文が掲載されています。
公に刊行された彼の最後の文章ということになるのでしょう。
それによればこの団体名にあえて須田の名前が冠されていないのはご子息寛氏の意向によるものなのだそうです。
その名の通り現在では須田国太郎に限定せず幅広いカルチャー関連の活動を支援しているようです。
2012年の没後50年展(これは鑑賞できませんでした)ではおよそ130点の作品が展示されています。
今回は絵画作品に限定すると約60点ほどですから前回展と比較すれば中規模程度のレトロスペクティヴといえるかもしれません。
しかしこの展覧会では絵画作品の他に須田が渡欧していた頃に撮影した写真約40点に加え、2000(平成12)年に遺族から大阪大学に寄贈された夥しいデッサン類の中から20点余りの作品も展示されています。
絵画にしても初期作から絶筆となった「めろんと西瓜」(1961)まで、代表作を散りばめながら、近年修復された大作「遺跡(サンクト劇場跡)」といった珍しい絵画がラインナップされていて見応え十分。
東西の国立近代美術館や京都市美術館といった須田の有名作品を蔵しているミュージアムはもちろん、彼の作品を常設展示している呉の三之瀬御本陣芸術文化館や個人からの貴重な出展品の数々で構成されています。
内容的には堂々と大回顧展と称して良いレベルだと思います。
「アーヴィラ」は1920(大正9)年に描かれた須田の初期を代表する一枚です。
須田が画家として世間に認められるようになったのは極めて遅く、1932(昭和7)年41歳のとき、銀座の資生堂ギャラリーにおいて開催された初めての個展によってでした。
その第1回個展も盛況というにはほど遠い状況だったようですが、これがきっかけとなって里見勝蔵(1895-1981)等に誘われ独立美術協会に入会、以後画家として本格的に認められていくようになります。
哲学者の谷川徹三(1895-1989)も数少ない須田国太郎初期の鑑賞者だったらしく「アーヴィラ」は彼によって買い取られました。
須田にとって谷川は最初の「顧客」だったわけです。
初期の作品とはいえ既にこの画家独特の濃厚な陰影美と造形の妙が現れている絵画です。
須田は非常に時間をかけて制作することで知られた画家ですけれど、不思議なことに彼の作品の前に立つと時間の経過が遅くなっていくような感覚に襲われます。
一度鑑賞し始めるとなかなか絵の前から離れられなくなるのです。
画家が絵に込めた「時間」が解凍されるようにじんわり滲み出してくるようです。
須田の生家は京都市中京区堺町六角下ル、現在はマンションが建っている甲屋町385番地にありました。
裕福な縮緬問屋業の家だったそうですが1912(明治45)年6月、火災で全焼。
翌年には父が他界しています。
須田は欧州遊学を終えてから下鴨や鹿ヶ谷、南禅寺草川町と京都市内を転々としていますけれどいずれも借家住まいだったそうです。
生家にいつまでも頼ることは許されなかったのでしょう。
しかし幼い頃から仕込まれた金剛流の能について生涯研鑽を重ねていたわけでもあり、下京の富裕層文化圏出身らしい面を最後まで捨てない人でもありました。
須田は「能はものになったが絵はまだだめだ」という趣旨の言葉を残しているそうです。
結構迫力のある言葉です。
会場では須田国太郎が描いた能の所作に関するデッサンがたくさん展示されています。
いずれもさらりとした画ですが、まるで人物が動き出すような生き生きとした線描がみてとれます。
この人はスペイン時代にその調理法を身につけたパエリャの腕前も素晴らしかったそうです。
慎重にすぎるほどの絵画作品をみていると静かに動かない深沈の人といった印象を受けますが、能に関するデッサンを見ていると、須田国太郎という人は意外にも運動神経がとても優れていたのではないかと感じます。
須田は病魔に冒された晩年に至ってもスペインへの再訪を希求していたそうです。
そんな彼の思いが濃縮されたような作品がアントニ・ガウディへのオマージュである「ある建築家の肖像」(1956)なのでしょう。
複雑に抽象化された幻想的な色彩を背景に画面右端近くに浮かぶガウディの顔が印象的です。
全作品について写真撮影OKとなっています。
大谷記念美術館は撮影を特段積極的に許容しているミュージアムではありませんからこの措置は共催のきょうと視覚文化振興財団側の意向なのかもしれません。
なおこの企画は香櫨園の後、三之瀬御本陣芸術文化館(5月1日〜6月24日)に巡回し、最終地の都内では世田谷美術館(7月13日〜9月8日)で開催が予定されています。