富岡鉄斎回顧展|京都国立近代美術館

 

没後100年 富岡鉄斎

■2024年4月2日〜5月26日
京都国立近代美術館

 

没後100年を迎えた富岡鉄斎(1836-1924)の大回顧展がスタートしました。

岡崎公園周辺ではまるでこの"Tessai"展に合わせたかのように例年より開花が遅れていた桜が満開を迎えています。
大勢の花見客が美術館の外には集まっていますけれど幸いなことに館内は静かで快適に鑑賞することができました(平日)。

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本展の英語タイトルは"TOMIOKA TESSAI: THE LAST LITERATI PAINTER"です。
 「最後の文人画家」という、この人を形容するときにしばしばつけられる表現が確認できます。

しかし日本語の展覧会名は「没後100年 富岡鉄斎」です。
"LITERATI PAINTER"に相当する文言は付されていません。
日本語タイトルには「文人画家」とあえて記していないようにもみえます。

主催側が意識していたのかどうかはわかりませんけれど、この措置はある意味、理にかなったことと言えるかもしれません。
というのも、そもそも「文人画家」という言い方は一種の形容矛盾をはらんでいるからです。
文人」として生きようとした人たちの多くは書画をよくしましたが、自らのことを「画家」とは認めていませんでした。
古典を学び、詩をつくり、書を成し、画を描く。
ときに茶を飲み、釣りをし、旅に出る。
彼らはこうした様々な愉しみを同時並行的に追求したのであって、何かの分野を専門的にきわめて特化するということを避けました。
というよりもむしろ「専門家」としてのアーティストという存在になってしまうことを何よりも文人たちは嫌っていたといっても良いかもしれません。
文人たちは、詩人や書家、絵師という一面をもちながらも、自らを「詩人」「書家」「絵師」とみなしてはいませんでした。
ですから「文人画家」という言葉は文人の本質に照らすとおかしい表現ともいえるわけです。

富岡鉄斎自身、このことを裏付けるような印象的な言葉を残しています。
「俺は知つての通り元が儒生で、画をかくといふのが変体ぢや」(図録P.151)と、画を本分としていないことを端的に自認していました。

しかし鉄斎は、画工ではないと表明しながらも他方では自らに備わった描画の才能を屈託なく大展開していった人でもありました。
円山・四条派の画家たちとも積極的に交わり、明治から大正にかけての京都画壇において独特の存在感を示していた重鎮でもあったのです。

この展覧会ではこうした複雑に面白い富岡鉄斎の全貌を絵画作品だけではなく、おびただしい所用印などを含めて展示することで明らかにしようとしています。
文人画家」ではなく「絵を描くことも思いっきり楽しんだ文人」としての鉄斎の本質がみえてくるような素晴らしい内容の企画展です。

 

 

展示されている印章群や鉄斎が愛用した日用品などの大半は宝塚にあるお馴染みの清荒神清澄寺鉄斎美術館から出展されているものです。

この企画展は京近美の後、富山県水墨美術館、碧南市藤井達吉現代美術館に巡回しますけれどいずれのミュージアムにおいても鉄斎美術館が「主催」として参画しています。

最晩年の鉄斎と交流し、たちまちその人柄に魅了されてしまったという清荒神清澄寺の坂本光浄法主によって熱心に収集された鉄斎作品や遺愛品が数多く展示されています。
鉄斎美術館は常設展示に加え折に触れて彼の回顧展を開催していますが没後100年という区切りの良いアニーバーサリーイヤーを迎えた今年は特に力を入れ、京近美をはじめとする各館と協働し大々的な鉄斎展を企画したということなのでしょう。
現在でも続く鉄斎の根強い人気はこの寺院の存在に支えられている面もあるかもしれません。

 


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富岡鉄斎を代表する大作が重要文化財「安倍仲麻呂明州望月・円通大師呉門隠棲図」です。
欠かすことのできない作品として当然にこの企画でも登場していますが、展示は4月2日から14日までなので桜が散る前には鑑賞する必要がありそうです。

1914(大正3)年に描かれたこの六曲一双の巨大屏風は西宮にある辰馬考古資料館の所蔵品です。
鉄斎が親友であった酒造家辰馬悦叟(1835-1920)のために描いたものですが、今回の展示では鉄斎が悦叟に宛てた私信等も並列展示されていて、両者の親密な関係を確認することができます。

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鉄斎が辰馬家に滞在した際、歓待へのお礼としてわずか2週間くらいで描き上げられたとされていますが、それがとても信じられないくらい緻密かつ壮大な作品です。
贅沢に群青や緑青を多用しながらリズムを意識しつつ巨岩奇岩などを配した複雑な構図。
その上に中国風の建物や人物が色鮮やかに点在しています。
非常に濃厚で情報量が多いにも関わらず全体からはどこか爽やかな空気が漂う、奇怪に清朗な世界に圧倒されます。

この作品が重要文化財指定を受けたのは1969(昭和44)年のことです。
狩野芳崖と橋本雅邦の絵画により明治以降の芸術作品に対する最初の重文指定がなされた1955(昭和30)年からおよそ15年経過していますから近代絵画の指定として異例に早いというわけではありません。

しかし「安倍仲麻呂明州望月・円通大師呉門隠棲図」は記念すべき近代京都画壇初の重要文化財指定作品でもあるのです。
京都画壇を代表する巨匠であった竹内栖鳳作品が初めて重文指定を受けるのはこの翌年、1970(昭和45)年の「斑猫」(山種美術館蔵)によってです。
現在では広尾の猫の方が一般的には有名なので意外に感じられますが、それだけ富岡鉄斎の重要性が当時は高く意識されていたということなのでしょう。

重文指定された当時の評には「老いを知らぬ精力的な筆致と豊麗な色彩感覚とが大画面の構成力と相まって、彼の文人的画境をよく表現している」(東京国立近代美術館重要文化財の秘密」展図録P.206)とあるそうです。

今回の展示では作品名プレートに鉄斎が描いたときの年齢が付されています。
「安倍仲麻呂明州望月・円通大師呉門隠棲図」は鉄斎79歳時の作品です。
「2週間で描いた」ということと合わせて二度驚くことになります。

さらに10年後、亡くなる年の1924(大正13)年に描かれた「普陀落山観世音菩薩像」(清荒神清澄寺鉄斎美術館蔵)などをみると筆致の繊細さはむしろ幽玄の域に達しているようで、少しも「老成」というイメージを受けません。

全体の展示を通して感じることでもあるのですが、富岡鉄斎は「老いてもなお」というより「老いれば老いるほど」、作品が素晴らしくなっていった人です。

数え歳で89歳まで生きたこの文人は今年没後100年ですけれど12年後の2036年、今度は「生誕200年」を迎えることになります。
おそらくまた大々的な回顧展が開催されるのでしょう。

 

会期は4パートに分かれていますが5月1日からはじまる第3期で比較的大きな作品の入れ替えがあるようです。
メインビジュアルに採用されている「富士山図」(清荒神清澄寺鉄斎美術館蔵)は第1,2期の展示、「妙義山・瀞八景図」(布施美術館蔵)は第3,4期に登場します。
中には先述した辰馬考古資料館蔵品のように単期で展示が終わってしまうものもありますからお気に入りの作品がある場合は京近美の「作品リスト」を確認した方がよろしいかと思います。

なおこの展覧会は全面的に写真撮影不可となっています。