中平卓馬が写した「京都」|東京国立近代美術館

 

中平卓馬 火 ー 氾濫

■2024年2月6日〜4月7日
東京国立近代美術館

 

来年没後10年を迎える中平卓馬(1938-2015)の非常に大掛かりなレトロスペクティヴです。

中平が最期までもち続けたのであろう写真に対する研ぎすまれた思念を東近美のキュレーターたちが正面から受け止めたような素晴らしい企画展でした。

 

www.momat.go.jp

 

「火 ー 氾濫」というタイトルが付けられています。
この「火」については英題の" Nakahira Takuma: Burn—Overflow"の方がわかりやすいかもしれません。
"Fire"ではなく"Burn"が使われています。

中平卓馬は1973(昭和48)年、それまで撮り溜めてきた写真のネガフィルムを「焼却」してしまいました。
まさにBurnです。
そしてその翌年の1974年、東近美で開催された「15人の写真家」展に彼が出展した作品のタイトルが「氾濫」でした。
今年2024年はこの「15人の写真家」展開催からちょうど50年にあたります。

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作家自身が自作を一旦一気に破棄してしまうことは類例がないわけではありません。

例えば雑誌「FOCUS」の表紙デザインで有名だった三尾公三(1924-2000)は日本画、続いて洋画を描いた人ですがエアーブラシによる作品を発表しはじめて以降、それまでの自作絵画を全て廃棄してしまったことで有名です。

絵画はそれ自体が消滅してしまうとどうしようもありません。
しかし複製芸術である写真はネガが失われてしまっても一度写真として公になると「記録」として世の中に残される場合があります。

中平卓馬は雑誌編集の仕事から写真家への道をたどった人でもあり出版メディアに数多くの写真を発表していました。
東近美は1973年の「焼却」以前に中平が撮影した写真を当時の雑誌や書籍そのものを展示することで「火」から救い出しています。

一般的な写真展ではオリジナルプリントが当然に使用されますけれど、この展覧会は大量の印刷物展示からはじまるのです。
その異様な光景にまず圧倒されます。

 

中平卓馬『来るべき言葉のために』(風土社刊・個人蔵)

 

新左翼系の雑誌編集者から仕事をスタートさせていることからも推測できるように、この人は社会や世界に対してひどく鋭く批判的な眼をもっていました。

70年代、中平が写した都市の風景には、日常的な生活を覆う虚膜が取り払われ独特のヒリヒリとした緊張感がつきまとっています。
街中で遊ぶ子供が被写体となっている場合ですら彼ら彼女らの図像はぼやけ、まるで幽霊のように身体が透けています。

都市が隠蔽しようとしている不安と殺伐さをこの写真家は容赦無く抉りとっているのです。

 

中平卓馬「写真・1970(4):風景2」(個人蔵)

 

鋭いメスをふるうようにシャッターをきった中平は、森山大道(1938-)、東松照明(1930-2012)、寺山修司(1935-1983)、多木浩二(1928-2011)といった当時の写真、文芸、批評に関する最も先鋭な人たちと交わることで社会や世界に対する批判精神をさらに分厚く鋭くしていったのでしょう。

しかし、こういった人たちはその影響力を増大させるにつれ、むしろ「世界側」に立ってしまったようなところもありました。

森山大道多木浩二たちと創刊した雑誌『PROVOKE』はその名の通り「挑発」を目的としていたのに、森山や多木は結果として「挑発される側」としての大家におさまっていきます。

世界の反対側から光を照射しようともがいていた中平にしてみれば、次第に自分自身も世界側の、しかもその中心に近いところに絡め取られてしまうのではないかと認識したのではないでしょうか。
鋭いカウンターパンチを見舞ってやろうとカメラを構えたその先に自分自身の姿があったとしたらどう行動したら良いのか。

その彼なりの答えが実は「焼却」=「火」だったのかもしれません。

 

中平卓馬「氾濫」より(東京国立近代美術館蔵)

 

面白いドキュメントが展示されていました。

中平卓馬が『アサヒカメラ』誌の企画にのって撮影した「特集・京都(1):信号は赤」(1974年4月号)です。
刊行は1974(昭和49)年ですから「火」の直後に成された仕事ということになります。

当時の雑誌そのものの該当ページが展示されているので精細な画面ではありません。
空の風景や家並みなどが写されていますが、いわゆる「京都らしい」景色はほとんど見あたりません。
それどころか寺院が写りこんだテレビ画面を撮影したとみられる写真には「ゲリラ事件」と描かれたニュースのテロップがあえてとりこまれています。

名所旧跡、風情ある街並み、伝統ある暮らしなどという典型的な京都要素に中平は全く関心を示していないようです。
といって左派的視点に立って、当時この街が部分的にまだ濃厚に残していたであろう貧困世界にフォーカスを絞りきっているわけでもありません。

「わかったような京都」はそれが明るいものであるか暗いものであるかに関わらず、絶対写さないというラディカルな姿勢が伝わってくるのです。

この写真家の底にがっしり根を張った「反抗」の精神が、断片的なドキュメントであるが故に端的に感じられた作品でした。

ところで中平に撮影を依頼した朝日新聞社側はこの「京都らしからぬ京都」写真群をみてどう感じたのでしょうか。
紋切り型の観光風景写真をこの写真家に期待したわけではなさそうですから「してやったり」と企画者は思ったかもしれませんが、一般読者にどこまでその真意が伝わったのかは今となってはよくわかりません。

 

中平卓馬「特集・京都(1) 信号は赤」(個人蔵)

 

中平卓馬は1977(昭和52)年9月、急性アルコール中毒で意識を失い、生死の境を彷徨ったあげく脳に後遺症が残るという悲劇に見舞われました。
記憶の一部が失われ言語機能にも障害が現れたそうです。

しかし「写真」が彼から失われることはありませんでした。
病の後も沖縄や奄美といった遠方まで出かけ、生々しい色彩の作品を発表し続けることになります。

本展は「火」の前と後の作品が中心ではありますが、最後のコーナーで病に倒れた後の作品群をたっぷり展示しています。

ネガを焼き捨てるという写真への「呪詛」を行なった写真家が、再び写真に「祝福」されているようなエピローグでした。

 

 

ほぼ全ての作品が写真撮影OKとなっています。

なおどういうわけか本展は図録の刊行がとても遅れています。
会期半ばの3月中旬に発行予定となっていましたが結局、3月末までずれ込んだようです。

会場内で実際展示されている風景を図録写真として取り込むような場合、当然会期前までに図録の制作が間に合わないことがありますが、本展はそうしたことがしばしば行われる大型作品中心のモダンアート展とは違いますから制作遅延の理由がよくわかりません。
とりあえず予約はしてみましたがどんな内容なのか、今から楽しみです。

中平卓馬奄美」より