ピーター・グリーナウェイ「ZOO」|シンメトリーの美と冷酷

 

動画配信サービスJAIHOによる企画でピーター・グリーナウェイ(Peter Greenaway 1942-)の過去作品4本が各地のミニシアターで公開されています(配給はツイン)。

ZOO(A Zed & Two Noughts 1985)を観てみました。
かなり昔に鑑賞して以来、劇場で観るのはおそらく2回目です。

greenaway-retrospective.com

 

以前公開されたときは周到にボカシが入っていましたが今回は無修正です。
また、この映画には多数の「腐敗シーン」が登場します。
従来の上映では過激さを薄めるためかその部分だけモノクロになるような画像加工がなされていたと思います。
今回のレトロスペクティヴ上映ではカラーのままです。
不思議なことにカラーでみるよりも昔見たモノクロ加工版の方が生々しかったような気もします。
単なる記憶違いかもしれませんが。

日本語訳も新しくなっているようです。
"Felipe Arc-en-Ciel"という登場人物が以前は「フィリップ・アーカンシェール」と表記されていたと思いますが、2024年上映版では「フェリペ・アルク・アン・シエル」となっていました。
この役を演じるヴォルフ・カーラーは自分のことを「フィリップ」と発音しているように感じましたけれど今回はスペルに沿って端的に日本語表記されたのかもしれません。

ただ同時に公開されている「英国式庭園殺人事件」や「数に溺れて」が4K版であるのに対し、この作品と「プロスペローの本」の画像はリマスタリングされていません。
いずれもグリーナウェイの凝りに凝った映像美が堪能できる作品ですからせっかくであれば4本とも4K化してもらいたかったところではあります。
特に「プロスペローの本」はおそらく4Kでも足りないくらいの画像情報量があります。
この映画については気長に8K超修正版を待つことにしました。


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さて映画「ZOO」を支配している大きな二つの要素が「シンメトリー」と「腐敗」です。

左右対称性はこの映画の至るところで映像そのものによって示されていて、それがグリーナウェイらしい独特のスタイリッシュな美観を生み出しています。
サッシャ・ヴィエルニ(Sacha Vierny 1919-2001)による見事にエスティックな撮影術も随所で堪能することができると思います。

しかしこの要素は単に映像的な暗示だけにとどまってはいません。
「ZOO」は「シンメトリカルであること」そのものがもつ冷酷さを描いた作品なのではないかと思っています。

この映画の本来のタイトルは「動物園」ではなく「Zと二つのゼロ」です。
これは「OZO」とも書けます。
表題自体が実はシンメトリー性を帯びているとみても良いのかもしれません。

左右対称の事物はそれを見た者に一種の安定感を覚えさせます。
洋の東西を問わず古典的な建築の多くがこの構造をもっています。
しかし、もしその左右対称性に歪みや欠損が生じたらどう感じるでしょうか。
それがわずかな「差異」であっても気になって仕方がなくなってくると思います。
シンメトリー構造をもった事物の欠損は、左右非対称、アシメントリーの事物が欠損したとき以上に不快さや不安感をみる者に与えます。

 


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本来二つあるものの一つがなくなる。
そのことによって起こる悲喜劇が描かれている映画が「ZOO」です。

双子の兄弟が交通事故によって二人同時に妻を失うところからこの映画は始まります。
妻というもう一つの存在を失った男たちは「双子」という生来の関係を強固に結び直すことで悲劇的かつ喜劇的ではあるにせよ「シンメトリカルな存在」として最終的な姿を迎えます。

夫婦という関係はシンメトリカルな構造を必ずしも持っているわけではありません。
しかし彼らにとってあまりにも唐突だった妻の喪失を補うためには、もう一つの強い結びつきであった双子関係というシメントリカル構造に帰結していくしかなかったということなのでしょう。

同じ交通事故によって片足を失った女性アルバ(アンドレア・フェレオル)はやがて無事だったもう一本の足までも手術によって切断します。
常軌を逸した異常な行動ではあるのですが、彼女が抱いていた耐え難い違和感を意外にも日常的な体験の中で擬似的に想像することができます。

両耳に装着したワイヤレスイヤホンで音楽を聴いていたとします。
その片方のバッテリーだけが落ちて聞こえなくなることを経験したことがないでしょうか。
私の場合、そのときに覚えた不快感は尋常ではありませんでした。
もともと片耳のみに装着した一本のイヤホンで音を聞いているようなときは平気だったのに、両耳をイヤホンで塞いだ状態で片方から音が聞こえなくなると途端に耐えられない気持ち悪さに襲われます。
左右に「あるべきもの」の片方がなくなることは身体的にも精神的にも相当なダメージを持続的に生じさせるようです。

シンメトリーはシンメトリーではなくなった時、再びシンメトリーに戻ることを冷酷に要求します。
アルバが残った片足を切断した後、同じく両足のないフェリペと幸福に結ばれたのは、この「シンメトリーの冷酷」な力によるものなのでしょう。

何にも束縛されず自由に生きているようにみえる裁縫師兼売春婦の女性(フランシス・バーバー)が登場します。
彼女は「ミロ」と呼ばれています。
劇中でもしっかりそれが「ミロのヴィーナス」からきているあだ名と説明されますが、このルーヴルの至宝には周知の通り「両腕」がありません。
足だけでなく手でもグリーナウェイはしっかり「シンメトリーの冷酷」を暗示しています。

 


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シンメトリーと共に「ZOO」を象徴するもう一つの重要な要素が「腐敗」です。

動物学者のオズワルド(ブライアン・ディーコン)は妻の死をきっかけとして、植物としての青リンゴから始まり魚類や爬虫類、鳥類を経て哺乳類のシマウマや類人猿に至るまで、まるで生命の進化をたどるようにその「腐敗」をカメラに収めていく行動に取り憑かれていきます。
写真スライドはつなぎ合わされ、高速再生させることでそのおぞましいメタモルフォーゼの有り様が再現されます。

他方、彼の双子の弟オリヴァー(エリック・ディーコン)は、デイビッド・アッテンボローがナビゲーターを務めた有名な生物ドキュメンタリードラマ"Life on Earth"を勤務時間中も酒浸りになりながら視聴し続けています。
それは生命の誕生と進化を肯定的に眺めようということではおそらくなく、兄が行なっている「進化と腐敗の段階」をトレースするかのように、最終的に生命がどのような形態を迎えたのかを確かめようとしているかのようでもあります。

双子兄弟は妻の喪失をきっかけとして「死んだものがどのように消えていくのか」ということに異様な執着をもつに至りました。

その欲求を満たすため兄が行ったことが「腐敗映画」の撮影であり、弟が行ったのは「生命誌」の倒錯した鑑賞でした。

「ZOO」では実際に生物が腐敗していくプロセスがマイケル・ナイマン (Michael Nyman1944-)の扇動的なミニマルミュージックにのって再生されます。
極めて独特な映像です。

なお、ナイマンはカンピオンの「ピアノ・レッスン」(苦手な映画です)以降、随分と作風が変わってしまいましたが、私がとりわけ好きなのはグリーナウェイと組んでいた頃の彼であり、中でも「ZOO」と「英国式庭園殺人事件」はその最も素晴らしい成果が現れている作品ではないかと今でも思っています。

 


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ところで、この映画が描く「腐敗」をみて、ある絵画を思い出しました。

「九相図」です。

息を引き取った女性が次第に腐り動物たちに死肉を食べられ、最後は骸骨となり消滅して終わる仏教絵画の一種です。
モデルは小野小町だったり檀林皇后だったりしますが、貴顕の女性が変容していく様子が極めてリアリスティックに描かれる内容は凡そどの九相図でも共通しています。
九相図は仏道修行に励む僧たちが、この惨たらしい女性変容図を見ることで煩悩から解放されることを目的として描かれたものです。

「ZOO」で描写される腐敗シーンは当然に仏教とは全く関係がありません。
双子兄弟は喪失した妻たちの死を実感する、もっと言えばその死自体を自らの中に取り込むことを目的として様々な生物の腐敗に向き合おうとしていると考えられます。

どんなに尊く美しい女性も死ねば醜く腐乱して滅していくことを描いた九相図は当然に「無常感」をも強く表象しています。
「ZOO」の双子がこんな抹香臭い思想に取り憑かれているとは到底思われません。
彼らはあくまでも「腐る」ということを通して死を直接的に実感しようとしているにすぎないのでしょう。

しかし九相図のベースともいうべき「不浄観」、つまり実際に死体が腐乱していく様子をみて煩悩を断ち切るという仏教修行を想像すると、この双子が目論んだことと通底した面があるようにも思えてくるのです。

腐敗していく人体はそのまぎれもない死の有り様をこれ以上ないくらいリアルに観る者に直接訴えかけてくると想像できます。
「失ったもう一つの存在」を呑み込む方法として「ZOO」の双子兄弟は「不浄観」と同じ方法を用いたといえなくもありません。

極めてスタイリッシュにおぞましい映画「ZOO」は、意外にも谷崎潤一郎によるこれも呆れるほどにスタイリッシュな追慕小説「少将滋幹の母」と共通した面をもっているように感じられます。

若く美しい妻を時平に奪われた藤原国経が「不浄観」を試みていたのは、煩悩を断とうというよりも妻の「死」を直接的に体内に取り込もうとしていたのかもしれません。

www.aozora.gr.jp