「ラース・フォン・トリアーの5つの挑戦」

 

今回の「ラース・フォン・トリアー レトロスペクティブ 2023」(配給 シンカ)では、なかなか体験することができなった珍しい作品を観ることができます。

ラース・フォン・トリアーの5つの挑戦」(The Five Obstructions 2003)もそうしたマイナー系作品の一本。

本邦劇場初公開です。

 

久しぶりに、心底、残酷に恐ろしいと感じられる映画を観ました。

表面的な暴力、残虐シーンは一切ありません。

トリアー作品としては珍しくR指定もありませんから、一見、「健全な」映画とも言えます。

それでも、とてつもなく、怖い映画です。

映画『ラース・フォン・トリアー レトロスペクティブ2023』公式サイト

 

奇妙な構成をもつ、一種のドキュメンタリー映画です。

主要な登場人物は二人。

一人はデンマークの映画監督、ヨルゲン・レス(Jørgen Leth 1937-)。

もう一人はラース・フォン・トリアー(Lars von Trier 1956-)、その人です。

 

ヨルゲン・レスが1968年に発表したモノクロの短編映画「完全な人間」(The Perfect Human 1968)を、トリアーが出す「条件」に従いながら、レス本人が監督しリメイク作を仕上げていくという内容。

ゲーム性と実験性を兼ね備えた興味深いテーマ設定がみられる映画です。

主に、レスのオリジナル短編+リメイクされた映像、撮影に取り組むレス、トリアーと彼との対話、この4つの要素から構成されています。

形式的にはトリアーとレス、二人による「共同監督作品」です。

 


www.youtube.com

 

トリアーは、故国の巨匠が撮った「完全な人間」を「20回は観た」と言っているように、レスをかなりリスペクトはしているようです。

リメイクのプランについて語り合っている、父子といってもよいくらい年齢の離れた二人の監督は、一見、ユーモアを交えながら談笑しているようにも見えます。

 

でも、すぐに、二人の間にただならぬ緊張感が漂っていることに気がつきます。

 

トリアーは、終始、意味ありげな笑みを浮かべながら、この大先達に対して、容赦なくリメイクの「条件」をつきつけていきます。

おそらくレスは、トリアーの真意や企てにある程度理解を示していて、後輩監督が繰り出す独特の皮肉や批判を、表面的には和やかに受け止めているようにみえます。

しかし、レスの表情、その奥には、明らかに強烈な困惑と怒りが渦巻いることをカメラは見逃してはいません。

 

観ているこちらがハラハラしてくるような、二人の映画人たちによる異様な対話。

レスが込み上げる怒りを老獪さの中に隠せば隠すほど、その場の緊張感は増大していきます。

一方のトリアーは、そうしてレスが怒りを心の襞の内になんとか包み込もうとする様子をむしろ楽しんでいるかのように、さらにストレスフルな「条件」をどしどし提示して追い込みをかけます。

トリアーは、丁重さ保ちつつも、まるでレスを自在に支配できる暴君のようにふるまい続け、ときにクレームで抵抗するレスも最終的にはトリアーの「条件」になぜか屈していきます。

強烈な個性同士が薄ら笑いの下で火花を散らす、静かに恐ろしいコミュニケーションの情景に、観ているこちらが次第にいたたまれなくなってくるのです。

 

「完全な人間」をベースにした4本の短い映像がレス自身の手によってリメイクされます。

 

1本目のプランとしてトリアーが提示した「条件」は次の通りです。

・ロケ地はキューバとする(たまたまレスがキューバ産のシガーを吸っていたため)。

・スタジオやセットを使ってはならない。

・1ショットは12フレームを超えてはならない(通常の半分ということ)。

・オリジナルにはない「質問への答え」を表現しなければならない。

レスは、この条件に従えば「出来上がる映像は痙攣だ」と正直な心境を吐露しつつも、見事に全ての条件をクリアーし、リメイク映像を完成させています。

しかし、トリアーの批評は辛く「乱雑だ」として、二本目のリメイク条件をすぐさまつきつけます。

 

下記が2本目の「条件」です。

・レスが「世界で最も悲惨と思える場所」で撮影すること。

・しかし、その「場所」そのものを映し出してはいけない。

・俳優はレス本人一人とすること。

・食事のシーンを含むこと。

レスはインド、ムンバイの売春街を撮影現場として選び、そこで自らが演じてリメイク映像を完成させます。

条件に対抗するアイデアとしてレスは、半透明のシートを使うことによって、現場を直接映すことなく売春街の情景を映像にとりいれ、それを「芸術的」と自賛しつつ、トリアーに提出します。

ところがトリアーはそのレス自慢の仕掛けが「条件に反している」と強硬に突っぱね、こともあろうに「罰をレスに与える」と言い出します。

 

「罰」として、もう一度ムンバイに戻って半透明ではなく「白い壁」を使い、ルール通り「現地を映さず」撮り直すか、または「条件なし」で撮るか。

トリアーはレスに迫ります。

 


www.youtube.com

 

ここで、この映画における核心の一つが顕現しているように感じました。

 

レスは、馬鹿馬鹿しく無駄なムンバイでの再撮影をもちろん拒絶しますが、それ以上に「条件なし」、つまり「自由に撮れ」というトリアーに猛反発します。

「自由に撮る」ことについてレスは「絶対に嫌だ」とまで言い切っています。

ただ、結局、ムンバイ行きは断念し、レスはブリュッセルで「条件なし」にサスペンス風のリメイク映像を撮りあげ、3作目とすることになります。

 

ここでは、とても奇妙なやりとりがなされています。

 

トリアーは、映像制作において、一般的にはむしろ歓迎すべきことでありそうな「条件なし」という条件を、ルールに違反した「罰」としています。

そして、レスもそれを「罰」として明確に受け取っているのです。

 

つまり、この二人のデンマーク人映画監督は、双方とも、「自由」であることに嫌悪感を示しているわけです。

とりわけ彼らが嫌がっているのは、「内容」の自由というより、「手段」あるいは「制度」としての「自由」ということになるでしょうか。

なんらかの「条件」、あるいは制約は、「内容の徹底的自由」を求める彼らにとっては、逆説的ですが、必須の条件なのです。

何もかも「自由」になってしまったら、もともと自由の混沌に辟易としている彼らは途方に暮れてしまうのでしょう。

特に一度は作品として「完全な人間」を完成させているレスにとってみれば、「条件なし」という条件は、そのまま「現在もっている才能を全て曝け出せ」といわれているに等しいことにもなります。

 

トリアーがレスに出した「条件なし」という条件は、両者共通認識の「罰」として、「最高刑」なのです。

 

かつてトリアーがヴィンターベアと共に提唱した映画運動「ドグマ95」の正体が、このドキュメンタリーによって、今さらながらに、明らかにされていると言えるかもしれません。

彼らは、さまざまな表面的制約、条件によって「縛られる」ことで、逆に、自身の癖を排除した新たなスタイルあるいは枠組みを強固に組み立て、「その中」において、過激に映画を創造していくことをもくろんだのです。

10ヶ条から成る有名な「純潔の誓い」は、トリアーたちにとって「戒め」ではなく、むしろ「必然」でした。

巨匠ヨルゲン・レスは、ラース・フォン・トリアーにとって「縛りを快楽とする」大先達であり、「ドグマ」のバリエーションを試みる意味において、格好の「獲物」だったのでしょう。

他方、レスもトリアーの「罠」を十分承知した上で、このドキュメンタリーに参画しているようです。

 

「条件なし」という「罰」のもとに創られたレスの3作目は、画面分割という「スタイル」を自ら強引に取り込み、「自由」から巧妙に逃れてはいるものの、小洒落た美しい短編以上のものではありません。

当然のごとくトリアーに却下されてしまいます。

 

さらに4作目の条件提示の前に、トリアーは「リメイク作がオリジナルを上回ることはない」と断言し、このプロジェクトの目標が、「レスに駄作を創らせることだ」と宣言します。

この暴言に対し静かに応答していくレスの姿からはヒリヒリするようなドス黒い感情の揺れが感得できると思います。

全く恐ろしいシーンです。

 

そして、トリアーは、レスの最も忌み嫌うであろう4作目の条件を提示することになります。

アニメの制作です。

案の定、「アニメは大嫌いだ」と抵抗するレス監督。

しかし、結局、老練の巨匠は、スマートにアーティスティックなアニメによる4本目のリメイクを「それなりに」完成させてしまいます。

トリアーも半ば諦めたのでしょう、「MTV風だ」と皮肉を滲ませつつも、このアニメ版「パーフェクト・ヒューマン」をもってレスの監督によるリメイク・プロジェクトを終了させています。

 

最後に、トリアーは、レスに、自分が書き上げたシナリオを渡し、トリアー自身が構成した映像にナレーターとして参加するよう要請します。

この5本目の映像作品においては、レス自身がトリアーに向けて語りかけるという体裁がとられています。

それはまさしくレスのセリフなのですが、その一言一言は、トリアーによって創作された言葉です。

編集によって切り取られた自分の顔、表情を背景に、自分自身に成り代わって、本心とは関係のないトリアーによって創作された「自分の言葉」を語らされるレス。

レスにとってこれほど皮肉に屈辱的な役回りはなく、トリアーの要請は破廉恥といってもよいくらい悲劇的なものです。

それでもレスは、最終的には、どうやらトリアーに「感謝」しているようにみえます。

新鮮な「縛られる快楽」を、束の間、後裔から与えられたことを喜んでいたのかもしれません。

 

「5つの挑戦」は、トリアーによってその「スタイル」を否定し続けられる映画監督レスの姿が極めて冷酷に露わにされている映画です。

そして実際、トリアーの評する通り、ここに制作されたリメイク群は、オリジナルの「完全な人間」を1ミリも上回ることができない作品として、冷徹に観客に対し提示されます。

邦題である「ラース・フォン・トリアーの5つ挑戦」が適当ではないことはすでに明らかでしょう。

この作品は、「ラース・フォン・トリアーによる5つの束縛」、です。

 

これほどまでに残酷で恐ろしい映画は滅多にありません。